血に汚れた己れの手を見つめながら、少年は泣きもせずにぼんやりとしていた。
視界に広がる荒廃した大地と、そこここに転がる無数の屍。独特の腐臭が辺りに漂っているが血の臭いに慣れ麻痺した嗅覚では何も感知しない。
ふと視線を向けるとあちこちで鴉が群がっていた。骸の目玉でも漁っているのだろう。死体は黙して語らず、ただ搾取されるのみ。こんな所で食われるためにあの者たちは生きていたのだろうか。もしそうだとしたらなんて哀れな。
涙は出なかった。仲間を一人喪うたびに、涙は流さずともあんなにも傷ついていた自分の昔が、吹いては過ぎてゆく一陣の風のように彼の心を通り過ぎて――しかし決して留まることはない。
少年は自分の腕が抱くものを見た。少年より幾らかしか違わないであろう、まだ子供の色を残した男。半開きの口からは大量の血が滴っているが、時間とともにそれは凝固しはじめている。数刻前までこの地で繰り広げられていた戦闘で、男は背中を預けるようにして少年の前で刀を振るっていたが、突然少年が始めた奇行を、何が起きているのか解らない、というように唖然として見つめていた。その表情がなぜかおかしく思えて、少年は少しだけ笑ったのを覚えている。
もう二度とこの者の心臓がうるさく脈打つことはあるまい。そしてまた己れの心臓も、いつの日かひな鳥の鳴き声ほどの音も立てずにやがて止まってこの柔らかな朽ち葉に埋もれるのだ。
感情をなくした少年に、唯一その想像が甘美に染んでゆく。


だめだ
唐突に、その声は聞こえてきた。
駄目だ、−−
お前は誰?と彼は問う。すると黒髪を長く伸ばした男は悲しげに眼を細め、答える代わりに少年の腕をしかと掴んだ。
−−−−
何を言っているの。お前はだれ。 そう、尋ねようとして、少年は自分がその男を知っていることを思い出した。正確には、知っていると思おうとした。
抱きしめた肉塊は冷たい風にどんどんその温もりを奪われ、今やしんと冷えた感触だけが両手にずっしりと重い。掴まれた腕の箇所が不思議と熱くて、それが銀時を苛立たせた。なに、これ。
「……放してやれ、−−」
段々と声が明瞭になってくる。少年はぎこちなく強張った両腕をのろのろと解放する。どさりと砂袋を下ろすような音をたてて、血にまみれたそれが茶色の大地に転がった。
空になった腕の中が少し不安になる。求めるように空に手を伸ばすと、男は銀時の手に手の平を合わせて、しっかりと握りこんだ。
「――桂」
ほっとしたように男の雰囲気が幾分和らぐ。ああ、そうだ。この人は桂という名をしていた。少年は安堵の息を吐いた。
「恐ろしいよ、桂」
「……ああ」
「人はどうしてこんな簡単に死んでしまうんだろう」
もう己れの手、こんなに真っ赤だよ。握りこまれた手の平をぐいと近づけて、少年は言う。
人を斬ることには慣れた。最初は、天人から江戸を守ろうとして剣を持っていたつもりだったのに、いつの間にか己の剣は人を斬るために使われていた。
幕府が天人を迎え入れてしまった以上、江戸に侍の居場所はない。攘夷を掲げる侍なんぞお荷物になるだけで、だから俺たちは同じ人間に狙われて殺されて、殺すのだ。

ざりざりと土を踏む音。視線をそちらに向ければ、片目を隠した男がこちらへ向かってくるのが見えた。
「なんてザマだ」
高杉。確かこの男はそんな名前をしていたはずだ。確かめようと名前を呼んだつもりが唇は意思のとおりに動いてくれず、少年はただ息を吸い込んで浅い呼吸を繰り返した。
桂が男を見上げた。どことなく諦めのようなものの漂う、そして何かを悔やむような、そんな表情で。けれど男は桂には眼もくれず辺りをぐるりと見渡して、それから少年と眼を合わせた。
暗い瞳だと思った。吸い込まれそうな、とでも表現すればいいのだろうか。目を合わせていると、背中からぞくぞくとした、快感にも似たものが這い上がってきた。それが気持ちいいやら不愉快やらで、少年は男から視線を外した。
「殺したのか。お前が」
男を見ずに少年はうなずく。
くっと、男の口元が無邪気に禍々しく歪んだ。
「てめえの仲間もか」
少年はうなずいた。
ふいに、彼らの周りに笑い声が広がった。どうしたのかと少年は不思議に思う。笑っているのは片目の男だ。声を張り上げて、おかしくて堪らないというように、狂ったように笑う。
「高杉」
桂が男の名を呼ぶ。やめろ、とその唇が震えた。
「これが笑えずにいられるか?」
くつくつと喉の奥で笑いながら、高杉は桂を見て、少年を見る。
「なあ、−−。お前はなんで、仲間を殺したんだ?」
にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべて男は少年に聞いた。桂を見ると、桂は何かを耐えるようにきつく目を瞑り俯いている。合わさったままの手の平が小刻みに震えていた。そこで初めて、少年は自分が悪いことをしたのだということに気づく。
「別に、殺したくて殺したわけじゃない」
脱力した様に、ただ指の先を見つめて、呟く。誰に向けてかわからぬ言葉だった。
「何が起きたのか、分からなかった」
少年が殺したのは、天人ではなく人間だ。自分たちと同じ、きっと、かつては侍であろうとしていた者たち。
なぜ己れたちは戦うのだろう。同じ国で生きた、同じ人種であった者たちと、なぜ殺し合い、殺されなければならないのだろう。
哀しい国だ。この国に生まれるしかなかった者たちは哀れだ。
――そう考えた瞬間、頭の中で何かが弾けた。
キレた、という表現は似合わない。本当に、何かがパンッと破裂したようだった。視界が真っ白に染まった。それまで感じていた疲れが嘘のように消え、身体が軽くなった。手足が冷たく凍え、意思とは関係なしに動き出した。
その瞬間から、少年には『敵』も『味方』もなかった。全てが同じ人間に見えた。
同じように、平等に死すべき人間に。
「俺はこいつらを殺さなきゃならない。こいつらを殺すためにこの力はあるのだと思った」
それまで『仲間』として認識していた1人を殺したとき、少年はそれを確信した。
「どうして侍は、普通の人間として生きられないんだ」
己れは、どうすればいいのだろう。
――どうすれば、あいつらを救えたのだろう。
そう呟いた少年を、桂は強く抱き締めた。




おーい。そんな気の抜けるような呼び声が聞こえてくる。少年は立ち上がった。ずいぶん長い時間座っていたから、足がびりびりと痺れて痛い。今更になって疲れがどっと全身を襲い掛かってくる。よろけそうになったのを桂が支えた。
「あれは坂本か」
「……だな。あのふざけた頭は」
彼ら3人の視線の向こうで、「ふざけた頭」の男は肩から先全体を大きく振り回してこちらへ近づいてくる。
「いつまでたってももんてこないから、みんな、心配しちゅう」
ま、おんしたちのことやき平気ろうとは思っちょったがが。
からからと心地好い笑い声をたてて、坂本は3人の前で立ち止まる。少年の顔を覗き込んだ。
「せんばんことうたちや顔をしちゅう。なんちゃーがやないか?」
「………標準語で頼む」
「めんどくさいのー。とにかく、はよぅ帰ろう。こがな場所にいつまでもおると鬼に出くわすぞ」
「それなら心配いらねえ」
にんまりと、高杉は笑った。ちらりと少年を見やる。その視線を追って坂本も少年を見て、目をぱちくりと瞬いた。
「鬼は、こいつだ」
逃げた方がいいんじゃねえのか?と高杉は揶揄するように言った。桂が咎めるように「高杉」とねめつける。少年はただ黙って俯いた。
不意に、坂本が少年の腕を掴んだ。突然触れた人肌の温かさに驚愕して、それ以上に触れられることが怖くて彼はその腕をぱしっと拒絶してしまう。
ごめん、と言いかけて、口を噤んだ。自分はもう今までは違うのかと、自分を指して「鬼」と言った高杉の声が重く反芻される。
殺したかったから殺したわけじゃない。でも、殺そうとして刀を振るった。そこには心理的な違いがあっても行為の結果は同じだ。
ちらっと目線を上げて見ると、坂本は手を撥ねられたことを別段気にしている様子はなく、ふーん、と息の抜けた頷きをした。
「坂本、このことは誰にも言うな」
「わかっちゅう。こやつがとぎ(仲間)を殺したらぁて知ったら志気が下がるからな。誰にも言わんよ。好きで殺したわけでもないやお?」
「当たり前だ!」
少年はびっくりして隣を見た。どうしてお前が怒るの。強く握りこまれ白くなった手の平から桂の激情を伺えて、少年は眉根を寄せる。
桂ははっとしたように口を閉じて、すまん、と小さく坂本に謝った。気にするな、というように坂本は手をひらひらと振る。
「なるばあ」
坂本はうんうんと何度も頷いた。
腕がすっと伸ばされる。叩かれるのかと思わず身を縮めると、予想を裏切って坂本の手は少年の頭にぽんと乗せられた。
ぽんぽんと、子供をあやすように叩かれる。
「名前をゆうてみろ。名前」
ん?と背中を丸めて坂本は少年の顔を覗き込む。風にさらされて冷たくなった唇に指を当てて、つんつんと突付いた。



「―――銀、時」



にぱっと、見ているこちらが暖かくなるくらいに明るく、坂本は笑った。
「おんしがそれをわかっちゅうなら、なんちゃーがやないだ」
さ、帰ろう。

そうして差し出された手を、少年は今度は拒まなかった。