“辛いと思ったときは我慢するなよ”


優しく触れる手の平の、その温もりを覚えている。


“お前が泣くのは、なによりも辛い”



痛みも苦痛も、決して苦痛ではなかった。殴られたところが痛くて動けなくなったり、なかなか血が止まらなくて泣きたくなったりすることは度々あって、それは日常的に起こりうる当たり前の出来事だったから。殺されそうになったことは数え切れなくて、いつ死ぬのか分からなくて、死ぬ準備だけは出来ていた。
「覚悟」なんてものは知らなかった。そんなもものが必要だなんて、誰も教えてくれなかったのだ。教えてくれる人がいなかったと言うべきだろうか。どちらにしろ、二人は死ぬ準備だけはできていたからいつ死んでも大丈夫だったのに、死ぬ覚悟はできていないからいつだって必死に生きてきた。足掻いて、足掻いて、懸命に生にしがみついた。いつだって命懸けだったから。
死んだらどうなるか、なんて、想像もできなかった。同時に、天国も地獄も、どちらも想像できないものだったから、死んだらそこらへんに転がっているような塊になってしまうとしか思わなかった。何も見ていない目は虚ろに開かれ、冷たい肉の塊は放置されたまま蛆を住まわせ腐り、朽ちていく。何度か見かけたそんな塊と同じように、自分たちもなってしまうのだということは、なんとなく想像できた。
死ぬことは怖くない。だけど、もう二度と、彼に彼女に話しかけることができないのだと思うと、どうしようもなく生きたかった。その声が聞こえなくなるのだと思うと、どうしたって生きてほしかった。


“どうしても逃げたくなったら、その時は”


二人の世界の住人は、隣にある温もりだけ。



“お前の自由は、俺が守るから”



世界は二人だけだったのだ。



† † † † †




銀時はゆっくりと瞼を持ち上げる。ゆるやかな覚醒だった。頭の奥底には重たい眠気が凝っている。久しぶりに夢も見ないほど熟睡していたようで、弛緩した手を鈍重な動作で持ち上げる。
右の手の甲には一文字の大きな傷痕。醜くく引き攣れ肉が盛り上がっている。腕にも幾多に残る傷痕は、そのほとんどが幼少時に付いたものだ。まだ生きることに必死でしかなく、無力であった幼い頃の。

「ボス、起きられましたか」

扉の向こうから部下の声がする。寝起きためにかすかに擦れた声で起きているよと返事をして、銀時は寝台から立ち上がった。

「沖田とかいう情報屋が表に来ています。どうなされますか」
「……通せ」

沖田、という名を持つ青年の貌を思い浮かべる。人を食ったような笑みを絶やさず、若さに似合わない狡猾さで情報を売る男。腕は確かであるから沖田から情報を買うことは少なくないが、彼の売り方には少し癖があった。
気に入った人間に、気に入った情報だけを売る   銀時は“お気に入り”に分類されているようで、彼は友好的な態度でもって情報を売り渡してくれる。しかしポリシーであるのか、銀時が欲した情報を欲した分だけくれることも、欲しい時にすぐ売ってくれることもない。本当に気紛れに、こうして銀時のもとへ情報を売りに来るのだ。
嫌いではない。銀時にとってもやはり沖田は“お気に入り”な子であった。理由のひとつに、銀時が面食いであることが挙げられる。二つ目は、同じくサディズムな人間であるために好みのタイプが似通っていること。
そして三つ目は     ,






部下が開いた扉の向こう、ソファに腰掛けていた青年は銀時が部屋に入ってくるやすっと立ち上がり、演技がかった仕草で腰を折って一礼した。

「お久しぶりですね。ミス・銀時」
「本当に。前に会ったのはもう半年近く前じゃないの」
「それぐらいになりますかねぃ……最後にお渡ししたのは、裏切り者の逃亡先でしたっけ」
「君から貰ったのはそれだけだったけどね。その件に関しては礼を言うよ。その先で思わぬ大物が釣れたから」
「そいつぁ良かった」

沖田はにこりと微笑みを見せた。
銀時は苦笑する。

「知っていてのことだろうに」
「さて…なんの事ですかねぃ?」

まあいいよ。銀時は椅子に腰掛ける。部屋から付いてきた桂がその後ろに立ち、デスクを挟んで沖田が立つ。ラフなシャツに黒のチノパン。この敷地の中では異質ともいえる、あまりに普通すぎる格好をして。

「今回は何をくれに来たわけ」

デスクに腕をついて、手の上に顎を乗せる。先程の笑顔とは打って変わって無表情となった沖田を見上げて、銀時は自分の声が少しだけ沈んでいることに気づく。桂でさえ気づかないほどの、とても些細な違いでしかないが、銀時は頭蓋骨に振動して伝達された自分の声を聞いて、気持ちが優れていないことを知った。胸騒ぎがすると、表情には出さずに胸の内で呟く。
何故だろうと考えてみるが、これといった理由が思い浮かばない。悪夢は見ていないし、最近は面倒な問題も起こっていない。小競り合いがあちこちで起きたようだが、銀時のファミリーにはそれほど被害もなく、平和と言えば一般の方々が眼を見開く程度には平和な日々が続いていた。
だからこその胸騒ぎだろうか。何かが起こるという警告。沖田が訪れたということを考えても、それが妥当なところだろう。
面倒だとは思わなかった。むしろ、何かが起こるということに、愉悦すら覚える。平和ということは幸せなことだが、銀時が選んだ生き方では、平和であることは罪なのだ。

「最近、中小マフィアの小競り合いが多いでしょう。銀時さんのとこは関与してなかったみたいだけど、麻薬ルートの流出とか、それなりに面倒なことがあちこちで」
「ウチは麻薬だけはやらないからね。面倒が起こりやすいから    それで?」
「慌てんなさんな。今回はちゃーんと、加工前のモノをお渡ししやすから」

沖田はにこりともしなかった。なのに、声の抑揚だけは楽しんでいる様子すらあって。これは何かがあるのだと、予想が悪い方向で確定してしまったことに銀時は眉間に皺を寄せる。

「ちょっとしたテリトリーの取り合いらしいですぜ。珍しいことでもねえ。小さいもんが勢力を広げるには、他の小さいとこを潰して取り込んでいくしかないですからねぃ。もっとも、ミス・銀時のような例外もありますけど」

突然現れた新人が、何の前触れもなくいきなり大物を倒してしまう。ありえないことではない。が、起こり得る可能性は、限りなくゼロに近い。
不可能に近い戦に勝利してみせた女を前にして、沖田は教科書を朗読するかのように一本調子で語る。

「でも、喧嘩相手ををひと括りで見ずに、ひとつひとつ組み替えていけば、そこには別の事実が出てくるもんでさぁ。他んとこの戦に便乗して、別の企てをする余所者ってのは必ずいる    戦争を目的とせず、宝物を探すハンターが」

沖田は懐に手を入れて、一枚の紙を取り出す。銀時の前に置かれたそれは既に金額の書かれた小切手だ。その額を見て銀時は更に眉間に皺を寄せる。なんだ、この額は。
嘗てないほどに高額だった。背後から覗き込んだ桂がぎょっとした雰囲気が背中に伝わる。「本気か、貴様」桂の問いに沖田は答えず、銀時に向かって「どうします?」とだけ聞く。ここにある提示額を払う気があるか否か。
情報の質や量というものは、金額に比例するのが普通だ。沖田といえ例外ではない。ただ、彼は“お気に入り”である銀時には優しいため、売る情報はとても安価なものばかりだ。それを調べれば何かが出てくるよという、一筋縄ではいかないが、情報の値段を考えるならいくらでもお釣がきそうなほどに質のいいものばかり。
今回は違う。最初からこの値段。いくら加工前のものとはいえ………。

   隣の部屋に坂本が待機してる。帰り際に渡しておけ」
「お買い上げ感謝しやすぜ」
「ボス、買うつもりですか」
「値段に見合った情報を売るのが情報屋だ。そしてこいつは、一度の買い物で一個以上のおまけを付けてくれるやつだよ」

そうだろうと視線で問いた銀時に、あんたに買い被られるのは嬉しいですねぃと呑気な答えが返ってきた。
いつも見慣れているはずの沖田の無表情が、その時なぜか、不吉なものの前兆に見えてならなかった。
沖田はここで初めて、作り物ではない笑顔を見せた    サディズムに分類される、玩具を前に破壊衝動を抱いた子供のような笑みを。

「そいつの狙いは、自由に飛び回る黄金色の鳥を地に墜とすことでさぁ。羽根を切り落として籠に閉じ込めて、二度と自由に飛びまわれないように」

ねえ、ミス・銀時。
青年は酷薄に笑う。

「あんたは許せますかぃ。そんなハンターを。自由を奪うために自由を与える、あの綺麗な鳥を打ち落とそうとする人間を」


相対する女傑も、笑った。




† † † † †




二人しかいない世界は光に包まれていた。光に照らされていると信じていた。貴方がいれば生きていける。まだ死んでない。まだ声が聞こえる。まだ腐ってない。まだ、温かい。
路地裏の腐臭を嗅ぎ同じ匂いをその身に纏わせても、光はあるのだと信じていた。闇に閉ざされた世界で生かされ殺されていたから、光がどんなものなのか知らなかったのだ。光を知らないから闇も光もなくて、闇を知らないから二人の世界は光しかなかった。
寒空の下でお互いに抱きしめて合って眠った。お互いの熱がひとつになるように。生きているのは自分ともう一人だけだった。いつ死んでも大丈夫。だって自分ともう一人以外には、自分は何も持っていないし知らない。死ぬ準備はいつだって出来ていた。

光と闇と。地獄と天国を知ったのは、どちらが先だったのだろう?



「戦を始めようか。目障りなゴミを全て燃やし尽くさないと」
「……どこまでもお供します」
「ありがとうヅラ。さぁ、皆を集めよう。久しぶりの血の狂乱パーティだ。楽しまなければ」



銀時は手の甲の傷に唇を触れた。十分に手当てすることも満足に膿を拭うこともできず、こうして醜い傷痕となってしまった。しかし銀時はこの痕が愛しかった。自分が、自分たちが生きた証だ。
ああ、兄さん。あなたは今、どこで何をしているのだろう。笑っているだろうか。楽しんでいるだろうか。
彼の人の楽しみが人道から外れることであるとは分かっている。でも、あの人が笑っているのであれば、自分はそれを止めはしない。どうせ己も血塗られた道を選んだのだ。二人しかいなかった世界はもう消えてしまったけれど、世界に二人がいることは変わらない。変えさせない。



「お前の自由は、俺が守るから」


貴方がくれた言葉は、全て貴方に返します。
優しく触れる手の平の、その温もりを忘れたくないから。






Il mondo solamente di due persone