儚い、という言葉がこれほど似合う人はいなかったように思う。まるで彼女のために考えられた言葉であるかのように思えた。窓から差し込む斜陽は端正なその横顔を照らし、風に揺らぐカーテンの動きはまるで何所かへ誘うように舞う。そこだけ他から切り離された別の空間のようで、その場所に銀時は見とれ佇んだ。
愁いに沈む瞳は美しかった。何を考えているのかと疑問に思うことすら躊躇わせる高貴な気配。しかし他者を寄せ付けない大輪の薔薇などといった風情ではなく、見る者を引き寄せる、もっと近しい花を思わせる可憐な人。思わず見とれてしまっていた銀時に気づいた彼女はきょとんと首を傾げ、次いでふわりと   艶やかでも華やかでもなく…慎み深いともいえる、そんな笑みを浮かべた。つられて目元を緩ませた銀時に彼女は今度は嬉しそうに微笑み、とても穏やかな色にその瞳は染まる。儚げながらも凛とした強さと温かさを灯した人。
言葉は必要なかった。銀時はその女性のことを、一瞬で好きになってしまった。気がつけば病室の中へと足を踏み入れていて、往年の友人のように彼女の華奢な手に自分の手を重ねていた。なんとなく、本当になんとなく、彼女の命がそう長くないことを銀時は悟ってしまって、その手を離したくないと思った。ずっとこのままでいたいとそう願った。
坂田銀時と自分を名乗ったのは、日も暮れて面会時間が終わりに差し掛かった頃。そこでやっと二人は名前を教えあった。彼女が疲れないようにと交わした言葉はそう多くはなかったけれど、名前を知らずに話すには長すぎた時間。おかしいわね私たち。クスリと笑みと共に零された言葉に、きっと運命だったんだと銀時は笑った。また明日来るからと名残惜しそうに手を離した銀時に、彼女は幸せそうに笑った。約束よ。明日は弟も来るの。きっと弟はあなたのことが好きになってしまう。それはちょっとだけ寂しいわね。でも、それも運命っていうのかしら?
冗談か、本気か。それは今となっては分からない。でも、銀時が彼女に惹かれたこと、出会ったこと。それらは運命としか言いようがなかった。もしかしたら亡くした父の幻影を、その微笑みに見出したのかもしれなかった。それでも銀時の彼女に対する好意に偽りはなく、会ったばかりの人なのに、たった一瞬で、彼女は銀時にとって、とても大切な友人になったのだ。
その翌日。約束通り彼女の病室に訪れた銀時は絶句した。彼女に似合うと思って買ってきた花束は床に落ち、淡い色の花びらが廊下に散る。
銀時が見たのは、昨日見惚れた瞳を瞼の奥に閉ざし眠る彼女の姿と、彼女の手を握り涙する少年の姿。
沖田ミツバは銀時との約束を果たすことなく、その生涯の幕を閉じた。





「ぎぃーんときぃー」

聞き覚えのある声と、その呼び方。確かめずとも己を呼んだ人間が誰であるかは明白で、銀時は立ち止まることなく歩き続ける。むしろ歩幅が広くなりスピードがちょっとばかり増したのはご愛嬌。
「ちょ、おい無視すんなって」
「無視してないだろ。ちゃんと反応してやった」
「いや反応するならスピード速めるんじゃなくて逆にしろよ。足止めろよ」
「だってあの呼び方、ムカつくっつったろ」
変に間延びして気持ち悪い。幾度と訴えた不満と共にぎらついた目線を寄せるも、この男が相手では意味を成さない。案の定、高杉はニヤニヤと面白おかしそうに笑い、「好きな子はいじめたくなるって言うじゃねぇかと」と銀時の肩を手で引き寄せたりする。近くなった顔にうぜぇと手を払い、ついでに鞄を持つ手を持ち替えて距離を作る。高杉は面白くなさそうに口を尖らせた。
今日の夕飯は?何やら期待の眼差しを向けられるがそんな眼差しはやはり無視。上の空で、シチューと肉じゃが、と答える。因みに歩く速度は落としていないので、高校生の男女が早歩きで闊歩するという、傍から見ればちょっとおかしな光景だ。
「ちょ、なんだその豪勢なメニューは。いつも一人でそんなに食ってんの?お前小食じゃねえか。ありえねぇだろ」
「ぶー。今日は辰馬のおごりですぅ。財布貰ってきちゃったもんね。これから買い物。だからバイバイ」
「えぇ!?なんだよその俺だけハブみたいな態度!あ、ヅラは?あいつも来るのか?」
「塾終わったら来るって」
「おぃいい!!ますますダメだろ!俺も!俺も参加希望!!」
「辰馬に許可貰ってください」
わたわたと携帯を取り出している間に、ほんの僅かな距離ができる。小走りでその距離を埋めてきた高杉はいつものふてぶてしさは何所へ行ったという様で、銀時は苦笑を浮かべてしまった。つくづく自分は彼に甘い。高杉の横柄な態度も時として人を人とも思わない容赦無い言葉はひどく苦手で、忌み嫌うこともあるけれど、同じ種類の人間である以上、銀時は高杉を心から嫌うことなど出来ないのだ。
次第にもとの歩幅へと戻っていき、肩を並べて歩く。携帯を耳にあてたまま素っ頓狂な声を上げたところを見ると、どうやら坂本に夕食の参加を拒否されたらしい。そういえば、先日、貸した教科書を無くされたとか言っていたような気がする。笑っていたが、生徒会長という立場にある手前、ばっくれる回数はそれなりとはいえ授業態度は模範的な坂本のことだ。実はちょっと根に持っていたのかもしれない。あーあ、馬鹿じゃないの。茜色の空に向かって小さな溜息をひとつ。
それでも懐の広いところは流石というか、結局坂本は高杉の同席を許したらしい。とはいっても電話が終わったのは銀時がスーパーで買い物を済ませ家の近くの橋を渡ったときで、かなりの言い合いとなったようだ。それでも通話ボタンを切った高杉はどことなく満足げな表情で銀時を見上げて「俺はシチューじゃなくてコロッケがいいんだけど」などとのたまった。思わず繰り出された蹴りは見事彼の太腿にあてられたが、それくらいは許される範囲だろう。それでも報復から逃れるために脱兎の如く駆け出した銀時と、それを追いかける高杉。おまえら幼稚園に帰れよ、というため息交じりの声は、塾へ行こうと玄関を出た桂からもたらされた。
「あ、ヅラ、今から塾か。帰りはいつもと同じ?」
「ヅラじゃないと……まぁいい。帰宅は11時くらいになる。食事はすませてしまって構わん」
「え、それじゃぁ4人分のお肉買った意味ないじゃん。ちゃんととっておくよ。なんなら明日の夕飯に……そしたらお袋さんの迷惑か」
桂は苦笑した。
「その心配はいらんな。俺の分を作る必要がなければ逆に喜んで父と外食に行くだろうさ   なんなら、肉じゃがだけでも残しておいてくれ。夜食は体に障るが、それくらいなら構わんだろう」
「うん。わかった」
行ってらっしゃいと手を振って見送る。自転車に乗ったその姿が曲がり角に消えるのを確認して、銀時は自分の家   桂宅の隣家の門を開いた。
玄関の扉を開く際、ただいま、と声を出して言ってしまうのはもはや体に染みついた習慣で、彼女のあとに続いて玄関へあがった高杉すらお邪魔しますと声を出した。銀時ひとりが住むには広すぎるこの家は、銀時だけでなく高杉にとってすら思い出深い場所であり普段の凶暴性もここでは鳴りを潜め、教え込まれた習わしはその体に息づいていた。
「あ、線香切れてたんだ。棚から新しいの出しといて」
「ああ」
銀時が案内する必要もなく高杉は勝手知ったる我が家のように廊下を突き進む。奥の座敷には質素な仏壇が鎮座しており、銀時の言うように壁際の棚から新しい線香の袋を取り出した高杉は、仏壇の前に膝をついた。
「先生」
灯した火を見つめて、両の手を合わせる。
瞼を閉ざせばそこに映るのは、彼が敬愛したただ一人の師。
「相変わらず、世界はつまんねぇよ」
口唇が呟く言葉は不満を訴えるも、再び開いた瞼の奥には自嘲気味な笑みを浮かべていた。

世界は昔から何も変わらない。ずっと、つまらないまま。
それでも高杉は生きていて、これからも生きて。
振り返ったそこにはお皿に載せたお団子を持った銀時がいて、高杉の片目と眼が合うと、困ったように笑った。

そう。世界は相変わらずつまらない。