部活が始まる数分ほど前、土方は教室の机の中に携帯を忘れてきてしまったことに気がついた。この学校では盗難の対象となるのは金銭だけではないから、主将の近藤に断って急ぎ足で取りに戻った。胴着に着替えてしまっていたから走ると裾がばたばたと風に煽られて動きにくい。
教室は東棟の4階にある。建物はコの字の形に建てられていて、剣道場は東棟のちょうど向かい側。廊下を行くのではとても部活の開始時間に間に合いそうにもなくて、土方は教師の目がないことを確認すると、中庭へ走り出た。外靴に変えないままで庭へ出ることは禁止されているからである。
この高校の中庭は園芸部の活動場所も兼ねてあるために、存外に広く作られている。敷地の三分の一ほどは野菜畑や花壇で占められているが、中央には小さな丘のような場所もあって日向ぼっこをしながらくつろぐにはちょうど良いらしく、昼休みは場所の争奪戦だ。土方は教室でのんびり食べる人間だから中庭を利用したことは無いが、総悟が中国からの留学生と競い合って走り出てくるのをいつも窓から覗いている。
その中央の丘の後ろには木が植えられている。噂では、その木の下で出会い、また告白したカップルは末永く結ばれるという言い伝えがあるらしいが、もちろん土方が信じるはずもない。ばかばかしいと鼻で笑って一蹴するタイプだ。
だからこのとき、土方がその木に視線を向けたのも、言い伝えが関係しているわけではなく、ふと目がいった、というだけのことなのだ。
木の下に佇む、一人の女子生徒。
つい足を止めて見入ってしまったのは、その生徒の容姿が類なれな色彩の持っていたからではない。
白い手に握り締められたメタリックな携帯電話。かみ締めた唇から零れる言葉は遠い異国のもの。
まるで何かに別れを告げるように、寂しげに微笑んだあとに見上げる空の色。
土方はその光景を、ずっと前から見て知っていたのだ。
転校生の到来というのは突然であるが、生徒たちの情報網を甘く見てはいけない。土方が教室へ入ったのはSHRの7分前で、その場にいた生徒はみな転校生がこのクラスへやってくることを既に知っていた。ドアをくぐってくる生徒に「今日転校生が来るんだってよ!」と興奮気味に叫んでくる。声は廊下にまで聞こえているから別クラスの人間までそれを聞き、へー転校生が来るんだって、という会話がいたるところでされていた。
「どんな子なんでしょうね。女の子らしいですけど」
気になりますよねー。山崎が古典の教科書を抱えて土方に近づいてきた。留学生や帰国子女の溢れるこの学校で、転校生というのは珍しくもなんともない。盛り上がるのは本人を見るまでの短い時間だけだ。
「土方さんは、やっぱこーいうの、全然興味ないですよね」
二年近くも同じ教室で飯を食った仲というか、山崎は土方の性格をそれなりに知っていた。だから土方が校内での話題など歯牙にもかけず、ちらりと山崎を見返すだけで頷きもしないことに慣れていた。むしろ、他の生徒と一緒になって転校生の話題を気にする土方など土方ではないとすら信じている。
しかし、この日の土方十四朗は、いつもと違っていた。後輩に怯えられ先輩にからかわれるほど仏頂面でしかし陰で大勢の女子にかっこいいと騒がれるほど精悍な顔にはちらりとも見せず、その内心では諸手を挙げんばかりに浮かれていたのである。
「山崎」
「はい?」
土方は山崎を振り返った。その表情はいつものように厳しい目つきであったが、山崎を呼ぶ声はどこか楽しげであった。
「その転校生に手ぇ出そうなんて微塵でも考えた日には、俺ぁおまえを叩っ斬るからな」
「へ……?」
「返事は」
「あ、はい」
よし、と満足げに頷き、土方は口の両端をほんの数ミクロンではあるが吊り上げた。
手にしていた教科書が床にばさりと落ちる。唖然と口をぽっかり開けた山崎の存在などもう気に留めることはなく、土方は己の席へ向かっていった。
山崎は固まっていた。今のはなんだ。今のは誰だ。驚きすぎて体がぴくりとも動かない。あんな人知り合いにいたっけ?ていうか本当にあれは誰?もしかすると二年近く一緒の教室で生活してきながら初めて見た土方の笑った顔。山崎はひたすら愕然とし、チャイムぎりぎりに教室へ入ってきた沖田に「邪魔でぃミントンやろー」と蹴飛ばされるまで動くことができなかった。
国際と名のつく高校には珍しくもなく、この高校にも帰国子女コースというものが存在する。かといって海外から帰ってきた生徒がみなここへ入学あるいは編入しなければならないという決まりはなく、一般コースでも特設コースでも生徒が自由に選ぶことができた。どちらのコースも国際高校らしく英語の授業はみっちり組み込まれているため、レベルの高い大学への進学を目指すかそうでないかに大体が別れている。
土方は一般コースに所属していた。成績は学年で上の中といったところであるから、十二分に特設コースでやっていけるだけの学力は持ち合わせている。しかし入学時もコース変更となる進級時も、教師に声をかけらえても特設への変更など全く見向きもしなかった。
理由を考えるのに、一般・特設クラスの、教室数が上げられる。進学校であるこの高校は、一般コースはたったのひとクラスしかないのだった。
そして土方は、己の選択が決して間違いなどではなかったことを、今、実感している。彼の視線は右斜め前で自分への悪口雑言をノートへ書き連ねている沖田など通り越し、担任の話している言葉も無視して、たったひとりの生徒に向けられている。
つい先日、土方が中庭で見かけた少女である。
銀糸の髪は薄暗い印象を受ける室内であっても陽光を浴びているが如く煌きを発し、透き通るような白い肌と、学生服の黒とのコントラストが、聖職者のような神聖ささえかもし出していた。
初めて土方が彼女を現実として、生身の人間として目にしたあのとき、彼はひどく動揺した。自分が他人とは違う「能力」を持っていることも、それが時として「現実」を教えてくれることも身に染みて知っていたが、今回ばかりは話が違う。彼は彼女と出逢うことを恐れ、そして何より渇望していた。
その「彼女」を実際に眼にして、土方は取り乱した。彼女が現れたことに驚き、逃げるようにして庭から出、もときた道を引き返した。剣道場へ戻ってからのことはほとんど覚えていない。記憶が飛ぶなんて経験は初めてだ。携帯のこともすっかり忘れてしまっていて、その日の夜は不安と期待とでなかなか眠りにつくことができなかった。
あれから数日。土方が彼女の顔を正面から見るのは実質これが初めてのことである。
彼女はぺこりとお辞儀をすると、どことなく緊張気味の顔で微笑んだ。
「坂田銀時といいます。いろいろとご迷惑おかけすると思いますが、これからよろしくお願いします」
さかたぎんとき。土方は胸中で彼女の名前を繰り返す。
ずっと前から知っていた女の子。その少女の名前を初めて知った瞬間であった。柄にもなく胸の高鳴りが大きくなり、手の平をぎゅっと握り締める。いつも手の届かない存在として見ることしかできなかった彼女が、今はこんなにも近くにあることに、どうしても緊張せざるをえない。これは現実だろうか?まさか夢オチだなんてことはないよな?握り締めた拳に爪が食い込む痛みは本物であるし、夢のなかで彼女が自分の領域に入ってくることこそ有り得ないとは分かっていても、待ち望み続けてきた瞬間に、土方の心臓は早鐘のように鳴り響き続けた。銀時が席につくまでの一挙一動が新鮮に感じられ、つい視線で追ってしまう。
「クラス委員長は誰だっけな」
「あ、はい、僕です」
突然呼ばれて慌てて立ち上がった新八に担任は、坂田の面倒を見てくれるようにと言い聞かせてSHRを終えた。高校生にもなって面倒も何も無いだろうに。
銀時の席は最前列の窓際だ。土方がわざわざ彼女のもとに行くのは周囲の目がうるさそうだと判断した土方は、逸る気持ちを抑えて授業の用意に取り掛かった。
ロッカーへ辞書を取りに行き、席に戻ってくれば、そこには沖田総悟の姿。
「土方さん」
「俺ぁ何も言わねえぞ」
「もうそれが答えになってまさぁ」
沖田はにんまりと人の悪い笑みを浮かべた。
「あの人が、土方さんの『運命の人』ってわけですねぃ?」
また本当になっちゃったんですねぃ、と皮肉なふうでもなく言う。
土方はそれに無言で応えようとして 沖田が広げているノートの内容を目にしてしまい、
「……なれたらな」
唸るように声を捻り出した。