指先、左肩、脇腹、太股    しっとりと潤いを帯びた柔肌に顔を寄せて、丹念に舌と唇で辿った。できたばかりの傷に舌を這わすとじんわりと咥内に鉄の味が広がる。
闇の中で蛍火のように微かに浮かび上がる白い肌を飾るいくつもの刀傷。薄れたものやまだ治りきっていない傷もあるが、やがてそれも痕を残すことなく消えるだろう。このまま醜く痕が残ってしまえばいいのにと思う。二の腕にある治り途中の傷を抉るように舐めると銀時が痛みに呻いた。

「痛いか」
「………いたい、よ」
「そうか」

その答えに満足して傷口から唇を離す。俯いたままでいる銀時の頬に手を寄せると、ぎこちなく細い手が重ねられて甘えるような仕草をされる。ふと後悔が首をもたげた。
      離したくない、と。
不覚にも、そう思ってしまった。
しかし高杉はそれを言わず、代わりに僅かに身じろいだ銀時の唇に不意打ちで己の口唇を触れさせた。珍しい甘い所作に面食らったように目を瞬かせた銀時は一瞬、泣きたそうに目元を歪ませて俯いてしまう。口元が何かを囁くように動いたが言葉は聞き取れなかった。
再び顔が上げられたとき、その紅玉の瞳が濡れていたように見えたが、確かめる暇(いとま)は与えられなかった。胸に押し当てられていた小さな手の平の温もりが消えたかと思えば銀時は高杉の腕の中から抜け出していて、あまりに軽やかで軽捷な動きはまるで腕の中から姿形が消え去ったかのような錯覚さえ抱かせる。刹那動揺した高杉は薄く開いていた拳をぎっと握り締めた。
さわさわと草の葉が揺れ、生暖かな風が肌を撫でていく。まだ冷め切らないままの熱を奪い取られ、肌寒さに身震いした。
襲撃もなく、比較的穏やかな時間を過ごしていたここ数日。涼やかな夜は心地よいものであるはずなのに、今ばかりはそれを楽しめる心境ではない。
この後に及んで何を言うことがあるだろうと思いつつも、一言の声もなく身支度を整える銀時に声を掛けたものかと躊躇う。まだ言わなければならないことが、たくさんあるような気がした。

    、銀」

ほんの小さく肩が揺れ、帯を締める手が止まった。
しかしそれも一刹那のこと。銀時は振り返ることすらしなかった。

心残りはあるが、それでいいのだと思う。今さらあれが大事であることに気づいたところで、どうしようというのか。高杉は己が執着深いことを知っていたが誰に気づかれることなく、これが不要な感情であることに決着をつけていた。
もしこの想いに救いがあったとするのなら。それはいったいどのようにして成されたのか。いっそのこと、離れることは許さないと、縛り上げてしまえば良かったのか。
そうすれば自分たちは救われるかもしれない。大切であったものを殺した負い目に悩まされずに済むかもしれない。    それこそ馬鹿な考えだ。去ろうとした者を無理やりここに繋ぎとめたところでなんになる。おまけに相手は“夜叉”だ。
鬼になることを躊躇う鬼など、何の意味もない。
高杉は起き上がり、枕元に置かれていた刀を手に取った。いつも夜叉と共にあったものだ。幼い頃から抱き続け、銀時に最も近しい存在。

「―――これは、お前のだ」

刀をずいと銀時の胸元に突き出す。

「てめぇのもんを置いていくな」

そう言われることは分かっていたというように銀時は苦笑し、目を細めた。
暗闇に描き出される額から鼻梁のライン。やや伸び過ぎた前髪が滑らかな陶磁の肌に、昏くかかって。
雪花石膏の膚。銀細工の髪。月光のもと、その姿はひどく清らかで──同時に妖艶だった。
観るひとを幻惑する為に造られた精密な彫像の様に。

「全てを捨てるつもりか」
「……まさか」
「なら受け取れ。これはお前のもんだ。俺が持つべきもんじゃねえ」

高杉の言葉など気にもとめずに、銀時はその刀を暫しの間凝っと見つめていた。その顔はやはり無表情で、何の感動も与えはしない。心は放り出されたように、抜け殻のようにそこに在るだけの器だ。そっと目を伏せられた瞬間辺りを包んでいた寂寞とした空気が濃くなり、いっそう毒々しかった。俯き加減の陰影が、よりそれを鮮明に浮き彫りにするから、高杉は益々やりきれないような気持ちになる。
黙ったまま見つめ返してくる銀時に刀を投げつける。受け取られずそのまま床へ転がり落ちカシャンと音が鳴った。小さな音だが神経の冴えた今はその音がやけに耳に残る。

「やっぱり俺は、お前が憎いぜ。銀時」

何を今更、というように、銀時は嘲笑った。

同じ“匂い”をしていたのだ。腐臭だ。身に染み付いて離れない血の匂いと、内側から侵食していくケダモノの気配。
似ているだけではない。こいつは自分と同じだと戦慄した。
それがどうしたというのだろう。何処でなにが変わったのだろう。
どちらが、どのように。

「行けよ」

犬でも追い払うような仕草に、銀時はまた苦笑する。幾通りも見せる笑いの表情。普段とは決定的に違っている雰囲気が、高杉を余計に苛立たせる。
どうにもならないことのために身体を起していることすら億劫になって、再び床の中にごろりと横になる。冷え切った身体に布団の薄い重さが心地よかった。
坂本あたりがここにいれば、高杉拗ねるな、とでも言うかもしれない。そうだ。自分は拗ねているのだ。
だけど、なに に?
分からない。分かりたくもない。

「さっさと俺の前から消えろ。そして二度と、俺たちの前に現れるな」


暫く寝たふりを決め込めば、闇の向こうで空気が動く。ミシリと古臭い畳が音をたてる。
ひとつ聞こえるたびに、音は遠のき。
やがて、静寂。



夜明けはまだ 遠い。