不意に触れた指先があまりにも冷たかったものだから、気が付けば思わずその手を引き寄せていて、その勢いのまま己より一回り小柄な体躯を腕のなかに閉じ込めていた。お互いの精神構造とあまりに縁遠いその行為に、抱きしめた側も抱きしめられた側も、何をしているのか何をされているのか、理解することも行動を起こすこともすぐには出来なかった。それは傍から見れば一瞬の出来事であったけれど、当事者2人からすれば数秒というあまりにも長い時間の触れ合い。
抱擁が解かれたとき、ヒイロはトロワの眼をまっすぐに見上げた。その瞳には今の一瞬の接触の意味を問う色が浮かんでいた。しかし、それに応える意思をトロワは示さなかった。翡翠の瞳はいつもと何ら変わった表情を見せず、「すまない」と言っておどけるように肩を竦めるだけであった。今の抱擁に特に意味はないとでも言いたかったのか。その真意を正確に汲み取ることはヒイロには出来なかったが、深く問い詰めるほどの出来事でもないと判断した彼は視線をトロワから外した。だから知らない。肩を竦めたトロワが、困惑し、惑うようにその瞳をそっと伏せたことを。
いつの間にか、しっかと握り締めていたヒイロの手を放せば、彼は何事もなかったかのように踵を返して歩き出す。一歩の距離を置いて、その斜め後方にトロワが続く。
トロワはそっと、小さく息をついた。
ヒイロに触れたのは、何もこれが初めてのことではない。自爆し、瀕死の状態であった彼を介抱したのは他ならぬトロワだ。ほとんどヒイロ自身の治癒力に頼った看病であったものの、血を拭い包帯を巻いてやったのはトロワで、幾度と無くヒイロには触れている。今さら、指先が触れ合っただけで、何を戸惑う必要があるのかと、自嘲の念すら浮かぶ。   でも。
驚いたのは、触れあった指先にではない。指の、手の。ヒイロの体のあまりの冷たさに、トロワは驚愕したのだ。
冷え切った指先が、おなじように冷え切ったトロワの掌に触れたときにはもうなにもかもがままならなくなっていた。まるで死体のようではないかと冷静な頭が呟きをもたらすより先に、トロワはヒイロの体を引き寄せ、その温もりを確かめていた。
意味のないことをした自覚はあった。何しろ、ヒイロは己の目の前を歩いている。そんな彼が死体であるはずがない。そしてどのような理由があろうと、トロワがヒイロに触れることには、何の意味も無いのだ。
「ヒイロ」
呼びかければ彼は足を止めてトロワを振り返る。聞かれなかったとはいえ、何かしら弁明はしておくべきだろうと思った。
だが意に反してふさわしい言葉は思い浮かばず、今度こそトロワは眼に見えて困惑した。己を見上げてくる瞳と眼を合わせることができ視線は悪戯に宙を舞う。これは珍しいものを見たというようにヒイロが無表情のままにぱちりと瞬いた。
何故、とか。どうして、とか。己に問うべき言葉はたくさんあるのだ。そうすれば自ずと、答えは導き出されてゆくものなのだから。けれど、その言葉に続くひとことを口に出す重みをトロワは知らないわけではない。知らないわけではないからこそ、口を噤むのだ。
あぁ、そうか    断罪の想いで、トロワは一度、眼を閉じる。
知りたくなかった感情や、知らずにすごせたはずの感情と。それでも知っておくべき感情に、自分はすっかり支配されているのだと思う。それでいい、と思う心と、それではいけないと思うこころとにひとつしか無い筈の想いはきっちりと分離していて、そんな自分のさまを見るのは初めてであったので、トロワは戸惑い、そして小さく笑うのだった。
「滑稽だと思ってくれて構わない」
手を伸ばす。
今度は確固とした意思を持って、ヒイロの肌に触れた。