真っ白な子供だった。肌の色も髪の毛も、そして存在までもが真っ白な子供だった。
抱き上げてみれば柔らかな子供の肌がなんとも心地よかった。こんな生き物がいるなんて!ラビは驚愕した。ぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られたが、自分の力では折れてしまうのではないかと不安でどうすればいいか分からず、傍から見れば危なっかしい抱きしめ方をしたまま暫くぼんやりしていた。子供はそんなラビの胸中を知るはずもなく、ラビの不安定な腕のなかで少し居心地悪そうにしていた。
子供の名前は誰も知らなかった。歳の頃は5,6といったところ。行方不明のクロス元帥が拾ったらしい。らしいというのは、子供を連れてきたのは教団のサポーターである夫人で、彼女の家に宅配便で子供は送られてきたという。人権を完全に無視してる、という考えは誰も思いつかなかった。何故なら送り主がクロス元帥だから。それだけで事は片付く。そしてサポーターである女性も、恐らくかつては元帥の愛人か何かだったのだろうということも、誰もがすぐに予想できた。
しかし、そんな教団の事情など、子供にはなんの関係もない。ただくりくりと大きな瞳でラビを見つめ、そして周りを取り囲んでいる科学班たちをきょろきょろと興味深そうに見回す。目が合ったリナリーがにこりと微笑むと、ほにゃりと頬を緩ませて笑う。その可愛らしさといったら!日頃の疲れが一片に吹っ飛んだかのように思える。それほど強烈に子供の愛らしさは荒んだ心に柔らかく浸透していった。天使みたいだね、誰かが呟き、そして誰かはその言葉に頷いた。
ラビは子供の顔を見た。天使?これが?宙ぶらりんの格好から膝の上に座りなおさせる。そこも不安定で居心地悪いのか、子供はずりずりラビの太ももを移動して胸元のコートをぎゅっと握り締めた。確かにかわいい生き物なのだろう。人間も土物も、おとなの保護欲を掻き立てるものでなければ生きていけないわけで、それを差し引いたってこの子供はかわいらしいものであるように思える。だけど天使という言葉は当て嵌まらないんじゃねえの?ラビは子供の頬をつんつんと突いた。
何処もかしこも真っ白なのに、体の左側にだけある色は禍々しい。アクマと同じペンタクル。そして血より赤い腕。
「……おまえ、なまえは?」
試しに名前を聞いてみた。子供はぱちりと一度瞬きをして、そしてまたふわりと笑う。けれど返事はなかった。
子供は声を忘れていた。
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ラビの何を気に入ったのかは不明だが、子供は彼の後ろをついて歩くようになった。といっても歩幅が違うので、ほとんど小走りの状態だ。歩くスピードを緩めてやれよと周囲は思うが、ラビの後ろをとたとたと一生懸命に付いていく姿は愛くるしく、特に日頃から心身共に付かれきっている科学班にとって、子供は大切な癒しを与えてくれる存在だ。ラビと共に部屋へ入ってくると思わず視線はその動きを追ってしまい、そしてラビと共に去ると物足りなさや淋しさが胸の内に沸き起こる。ラビの野郎、一人だけいい思いしやがって。誰かが囁き、誰かが頷いた。
しかし子供の姿を捉えるおとなたちの目には、何も子供に対する愛しさだけが映っているわけではない。子供はもうすぐイノセンスの訓練に入ることになっている。また一人、神の使徒が増えるのだ。喜ばしいことではあるが、やはり良心は痛む。あんなに小さな子供にまで戦を教えなければならないのか。特に幼い日から教団で過ごしていたリナリーは目に見えて子供を心配している。幼い頃から訓練漬けにされ、心を病んでしまった使徒は少なくないのだ。あの子供がそうならないように。誰もがこっそり胸の内で祈っていた。
一方、子供に付き纏われているラビは、正直、うんざりしていた。何処に行こうとしても子供がついてくるのだ。まず朝になって部屋の扉を開けばそこにいて、訓練中は不思議と邪魔にならない距離を保ってじっとこちらを見てるし、トイレからお風呂まで、子供はちょこちょこ付いてくる。人目があるから邪険に扱うこともできない。何度か、部屋に入って扉ではなく窓から逃げ出して撒こうとしたことがあったのだが、ふと気が付けばまた後ろにちゃんとくっついてきているのだ。恐ろしいというか、気味悪い。
そもそも、自分だってまだ歳は15。子供より10上だからといって、他人の面倒が見れるほどおとなではない。しかも、言葉を話さない子供を相手にするなんて。
今も目の前の椅子に座ってカレーライスを頬張る子供を、ちょっと疲れた視線で見やる。因みにカレーライスはお昼になってこれで13皿目の品。その小さな体のどこに入るのか、とにかく食べる食べる。もごもごと口を忙しなく動かす子供はラビの視線に気づき、どうかしたのかというように首を傾げた。なんでもねぇさ。ラビは苦笑して子供の額にでこぴんを食らわせた。威力が強かったのか泣きそうな顔をされ、周囲からの視線がより厳しいものに変わったものだから、慌てて額を撫でて慰めてやる。わりぃわりー。ダイジョブ?子供はスプーンを咥えたまま頷いた。
とりあえず自分の食事を終えて、ラビは立ち上がる。子供もそれに倣って立ち上がった。なんとなくまだ食べたそうな顔をしていたので、まだ食べててもいいのにと言うと、子供はぶんぶんと首を振る。そしてラビの服の裾を掴んだ。一緒に行く、という意思表示。ラビはやれやれと溜息をついた。
もしここに友人である神田がいれば、邪魔だガキとでも言って子供を引き離そうとしてくれるかもしれない。それとも、あれで案外優しいところがあるから、邪魔だと言いつつも自分なんかよりあれこれ世話妬いてくれるかも。神田のやつ、いつまで任務に行ってるつもりだ。
誰か自分以外にもこの子供の興味の対象が現れてくれればいいのに。薄暗い廊下をのろのろと歩きながら考えてみる。リナリーはやはり子供が気になるようで、時間さえあれば様子を見に来てくれる。子供も彼女のことは割りと気に入っているらしい。科学班のメンバーも、ファインダーも、時には世話をしてくれる。いや、子供は自分の部屋を与えれていて自分のことは一通り自分でこなしているようなので、正確に言うなら誰も世話というものを妬く必要はないのだが。それでも、一日中引っ付かれているラビとしては、一緒にいること自体既に世話してるもんだろと、正しい主張を胸に抱えている。
「……俺、明後日から任務だから」
返事が無いことを承知で語り掛ける。子供は聞き分けの良い子供のように、一度こくんと頷いただけだった。
「帰りはいつかわかんねーさ。けど俺が行ってる間に、おまえも訓練が始まると思う」
寄生型イノセンスの所有者は、装備型のエクソシストよりはるかに厳しい訓練を課されることになる。エクソシスト自身の戦闘能力がものを言うからだ。
死んでしまう可能性も、装備型よりずっと高い。制御しきれていない状態でイノセンスが暴走でもしたなら、場合によってはエクソシストの命を奪うことになる。その役目を担うのはイノセンス自らか、それとも他の使徒か。
「おまえって弱そうだし、すぐぽっくり逝っちまいそうだよな」
揶揄したつもりで話した言葉は、他でもなく自分自身の胸に重く響いた。
あと一回廊下を曲がればラビの部屋に辿り着く。そういえば、この子供はいつも付き纏ってくるくせに、ラビの部屋の中に入ってきたことはなかった。変なところで律儀に他人と一線を引く子供。
もしかして、と思う。子供が自分に引っ付いてきたのは、自分と一緒にいれば、他の人との接触を最小限に留められるからではないか、と。ブックマンの後継者であるラビは、エクソシストと懇意にしていても、心の内にまでは踏み込ませないから。
こんな幼い子供がそこまで聡いのかは分からないが、全くそう思えないわけでもない。
しゃがみこんで子供と同じ目線になる。さらさらの髪を梳く。額には逆五芳星 最も大きくこの子供を形作るものは、イノセンスでも白さでもなく、このペンタクルであることを、ラビはたった今気が付いた。白銀の瞳はきらきらと光を帯びていたけれど、それが子供自身が持つ光ではないことを、かなり最初の頃に悟っていたというのに。
「おまえ、さ」
それは確信でもなんでもなく、ほんのちょっとした思いつき、みたいなものだった。
「もしかして、死ぬために此処に来たのか 」
子供はとても綺麗に微笑うものだから、ラビもつられて、つい笑ってしまった。