仕事を終えて部屋に帰ると、野良猫がベッドの上で眠っていることがある。最初はベッドから蹴落として窓から放り投げて追い出したが、10回ほど繰り返すうちに諦めた。どうせ寝ているだけだ、何も害はない。本当は猫が近くにいるだけで苛々するし空気はまずくなるしと害になることしかないのだが、ただ寝ているだけの存在に一人で腹を立てていても悲しいだけだと、猫が訪問してきて13回目で悟った。本当に猫は静雄のベッドの上でただ寝ているだけなのだ。声をかければ目を覚ますし、掛けなければそのままだ。静雄が寝るときにはいつの間にかベッドの隅に移動していて、狭いベッドがさらに狭くなるがそれでも静雄が眠るぶんのスペースは空いている。最初の頃はこんな猫なんかと一緒に眠れるかと布団を剥いで床で眠っていたのだが、いつかの夜にふと目を覚ますと隣に猫がいたので驚愕した。あまりに驚愕したので夢だと思い込み眠り直し、朝になって目を覚ませば猫の姿がない。そして次にまた猫が訪れたとき静雄はまたしても床で眠ったのだが、冷たいフローリングに猫が降りてきたのを感じてからは、渋々と猫と一緒にベッドで眠るようになった。どうやら猫は静雄がシャワーを浴びている間にベッドの真ん中から隅に移動しているらしい。今まではひんやりと冷たかった布団が猫の体温で温められてちょうどいいじゃないかと、無理やりに自分を納得させた。
猫は明け方に姿を消す。静雄の部屋を訪れるのが1週間に1度、3日に1度、2日に1度と間隔が狭くなってもそれは変わらず、猫が部屋を出ていく姿を静雄は見たことがない。一度だけ眠らずに夜を過ごそうかと企んだことがあったが、どういうわけかその日に限って気を失うようにして深い眠りについてしまった。猫には自分の巣があるのを知っている。こんな一間の狭くボロい家などではなく、綺麗で清潔な広い家がある。きっとそこへ帰っていくのだろう。ここは静雄の家であって猫の家ではないのだから。
それでも猫の半居候を許してしまい、ベッドの狭さだとか慣れない温もりだとかに耐えて妥協して諦めるうちに、猫の体温が当たり前になってしまった。最初の頃は背中を見せていた猫がそっと静雄の背に触れるようになり、その指先に応えるように静雄も猫に向き直って眠るようになり。いつしか猫を抱きこむようにして眠るようになる。あぁ絆されてやがんなぁと忌々しさを噛みしめながら、それでも猫の己より一回りふた回り小さな体を当然のように抱きしめた。抱きしめるために回した腕に少しだけぎゅっと力を込める時、猫の体はわずかに緊張する。抱き潰されることを怖がっているのかもしれないと思ったが、どうやらそうではないらしい。気を遣ったつもりで力をこめずにいると猫は不安の色を瞳に宿して見上げてくるのだ。なんとも不可解な猫である。ぎゅっと抱きしめられたあとに猫は長く吐息を吐く。それとともに緊張した体が一気に弛緩するのが分かる。毎夜繰り返されるそれは何かの儀式のようだった。
少しずつ変化してきた猫との距離に戸惑いを覚えることもあるが、家の外で遭遇する猫は静雄の腕の温もりなど知らないとばかりに飄々としている。昨日もまた猫は静雄の首筋を皮一枚切り裂いて逃げて行った。あの野郎ぶっ殺すと息巻いて帰宅したら、何もなかったかのように猫がベッドの上にいるのだから静雄は脱力するばかりだ。お前何がしたいんだと、シャワーから上がってベッドの隅で眠る猫を抱きよせながら思う。
「おいノミ蟲」
猫は目を閉じたまま、なに、と小さく答えた。
「お前もうここ住んじまえよ」
ぱちりと猫が目を見開いた。だが静雄も驚きだ。俺はいま何を言った。
けれど言ってしまったものは仕方がない。なにそれどういうことと驚き固まる猫をぐいといつもより近くに抱きよせて、静雄は「あー……」と長くため息をついた。なんだか、なぁ。
「抱き枕がないと眠れなくなった責任をとれ……」
意味が分からないよ!ていうかちょ、きつい、ギブギブ!と腕の中で小さな抵抗をしてくる猫の首筋に顔を埋める。いつの間にか猫の臭いが気にならなくなった自分がいることに静雄は気付いていた。絆されたのだろうか。というより、絆されることを望んでいたのだろうか、自分は。いったい、いつから。
「もう黙れ。寝ろ」
黙らないと圧死させてやるぞという脅しを込めて猫の体をぎゅうっと抱きしめる。静雄の腕を掴んでいた腕が諦めたように背中へまわされ、一度だけ強くパシリと叩かれた。その抵抗を最後に、猫は大人しく眠りに就く。猫の寝息が聞こえるまで、静雄はずっと猫の艶やかな髪を梳いていた。