バイトが終わるのは22時。それから家へ帰るとなると、ベッドに潜るのは24時に近い。明日の授業の予習何もしてねーや。だけど解るから別にいーか。それにしても夜なのにやけに騒がしいなぁと思いながら駅から家への帰途を歩いていると、野次馬のような町人たちとすれ違い、ちらほらと事情を耳にした。そうして得た情報で、今宵いつになく街中が騒がしいのは警官があちこちにいるからか、と納得する。
隣街の美術館に、巷で噂の怪盗が現れたのだという。20世紀にもなってわざわざ予告状なんて代物を寄越してくる奇怪な盗人。彼は予告どおり美術品を盗み逃亡し、しかしとある警官が許可なく発砲してしまった銃が命中し、相手は怪我を負っているらしい。だから警察もいつになく追跡に精を出しているわけで。そんな情報を右から左へ流しながら、やれやれ大変だなぁと怪盗さんに阿弥陀仏と心中で唱えてみたり。
確か、かつて日本で名を馳せた推理小説家が、その怪盗に名前をつけていたはずだ。新聞で取り上げられるたびに一面を大きく飾るものだから、ミーハーではない自分だって知っている。
ドロボウの名前は、怪盗キッド。
女性には黒衣の騎士とか騒がれている、全身黒装束の稀代の天才。
その天才様に出逢ってしまうとは、少年は夢にも思っていなかった。
運命的邂逅
「えーと、こういう場合は警察を呼ぶべきでしょうか」
「見て見ぬふりをして優しく介抱してやるべきだと思う」
快斗は母親と二人暮らしだ。その母親は階下で既に寝ているため、この部屋には快斗本人しかいないはずなのだが、扉を開けて電気をつけると、窓際にひとり、見知らぬ男。
驚きに叫び声を上げなかった自分を褒めるべきか。快斗は「困ったなぁ」と実に困っていないような口調で呟き、首筋を摩った。
「あんた、怪盗キッド?」
「俺が名乗った覚えは無いが、そう呼ばれてはいるな」
まさか自分の部屋に怪我を負った怪盗が忍び込んでいるなんて。
電気を点けるまでその存在を気づかせなかったのは流石というところか。もしここに警官が入ってきたらどうなるんだろう。俺ってば共犯者?うわぁ、それはイヤだなあ。せっかく高校に受かったのに。
とりあえず、鞄を机に置いた。怪盗の視線は自分の動きを追ってくる。快斗も彼を観察した。いつも新聞に載るのは影のような輪郭のはっきりしないものが多かったりするので、こうしてちゃんと人の姿として捉えるのは初めてだ。というより怪盗としても、こんなにまじまじと見られるのは初めてなのだろう。威嚇されているような気がしてならない。それでも快斗は興味津々に彼を眺める。なるほど全身真っ黒。夜中にドロボウだから許される格好で、真昼間に大通りを歩いていたら怪しい人だ。軍服のようにかっちりとしたデザインの詰襟ジャケットとスウェットは黒。顔を隠すのはマスクではなくサングラス、というよりはスコープを改良したもののように見える。
怪我をしたのは押さえている左腕か。床に血が流れているような大出血というわけではないらしい。ちょっと掠ったという程度だろうか。
何故か棚に完備してある救急箱を取る。怪盗との距離はおよそ2メートル。
一歩踏み出すと、僅かではあるが怪盗が身じろいだ。
「自分でやる?」
「当然だ」
「人に物を借りる態度ですかそれは」
「怪我人を労われと教わらなかったのか」
「うわぁなんか貸してなんかやりたくなったんだけど、どうしよう」
「煩い貸すなら貸すで黙って渡せ」
怪盗の声が震えたのに気づいた。あれもしかして実は大怪我?快斗は「近寄るから、逃げるなよ」と告げて二歩だけ前に進み、怪盗の手に届く位置に救急箱を置いた。彼が逃げようとする素振りを見せなかったことに、その従順さになんとなく感心。それにさっきからあたかも知り合いのように会話しちゃってるんですけど、これって有りえなくないですか普通。
とりあえず椅子に座り、救急箱を開ける彼を再び観察。ずいぶん胆の据わった人物だ。自分が追われている身であることを自覚していないのだろうか。
手袋は外さずに箱の中身を取り出す。「大したモンは無いな。針もねぇ」という呟きが聞こえたら「普通は縫うような怪我は病院でやるので」と応答。怪盗はちらりとこちらを見た(ような気がする。サングラス越しでは目なんか見えないから)。
腕を手当てするものだと思っていたのに、怪盗が服を捲ったのは全く快斗の予想と違う場所。彼は足を怪我していた。白く細い足を染める赤がなんとも毒々しい。
「え、怪我してんのそこなら腕じゃなくてそっち押さえようよ」
「足って知られたら警察呼ばれやすいじゃねえか」
「なるほど」
自分の反応次第では彼は逃げていたということか。当然といえば当然なのだが、快斗は何故か怪盗が自分の前から立ち去らないような気がしていた。というよりそんな考えを抱いていた自分がいたことに、快斗は少なからず驚き、そしてショックを受けた。
初対面のドロボウに、俺、なに空想抱いてんだろう。快斗はだからバカイトなのよ、とたしなめる幼馴染の姿が浮かんだ。
止血はしてあったらしい足に消毒液をどばどばと降りかける。そんなにかけたらしみるだろうに。痛いことが苦手な快斗は自分の方が痛くなってしまって、「あんた、手当ての仕方とか知ってるの?」と声をかけてみる。
答えがあるとは思っていなかったのだが、怪盗は律儀に応えてくれた。「知識はある。けどめんどくせー」と。
快斗は決してミーハーではなく怪盗への興味も薄い方だったが、この数分で、世間が抱いている彼のイメージがどれほど見当違いなものなのかを知った。
ガーゼを貼って包帯をぐるぐるに巻き、怪盗は立ち上がった。
「外は警官だらけだけど、どうすんの?」
「別に走れないわけじゃねぇ。適当に撒くさ」
「……俺の部屋に上がりこんだのって理由あるわけ」
「窓が開いてたから」
その窓に怪盗は手をかける。
待てよ。今にも飛び降りて去っていきそうなその姿に呼びかける。
「俺があんたをここで押さえつけて、警察を呼んだら、あんたどうする?」
「おめーなんかに捕まえられっかバーロー」
怪盗は不敵に笑った。
猫のようなしなやかさで窓を飛び越え、
「じゃあな」
ひらひらと手が振られる。
もう姿は見えなくなったのに、声だけはとてもきれいに耳に届いた。
「ちょ、本当にあの人、なんのために俺の部屋入ったの?」
消毒液の瓶を空にするため?
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