近親相姦という言葉がある。
血縁の近い親類と、言わば血の繋がった者同士でセックスすることだ。
一般的には親子とか兄弟同士とか、家族という表現で括られる者との関係。社会通念では禁じられている相手とのセックス。
幸いなことに快斗にはその経験がいない。母とセックスしようと考えたこともない。血の繋がりがなくても家族同然の付き合いをしてきた幼馴染の下着を見て欲情したこともない。健康な男子高校生としては少し哀しいことかもしれないが。とにかく、快斗には近親相姦してまで抱きたいと思う相手はいない。
それでも快斗が抱くこの罪の意識は、原因に名をつけるなら近親相姦によるものだ。そうとしか言えない。快斗は犯してはならない相手を犯した。
( あぁ、逆か))
犯されたのは己の方か。
自嘲の笑みと共に浮かぶ思考は愚かに過ぎる。だが今はそれすら心地良い。
(名探偵 )
夜風を纏って降り立った地上で、月を見上げて想うのは一人の青年の姿だ。この世界のどこを探しても見つかることのない至高の存在。
(あんただけが、俺を知ることができる)
想うのは、ただ一人の青年のこと。
最初の頭突きで満足を得ることができたのかは不明だが、とりあえず探偵は怪盗に向かって攻撃してくることを止めた。だがその表情にははっきりと、この上なくはっきりと、「俺様は、大変、かつてないほどに、不愉快である」と描かれている。その表情作りは見事なほどだ。あの小さな女王様が目線で人を跪かせることができるのと同じように、彼もその眼差しと雰囲気で相手に強烈なプレッシャーを与えてくる。その相手というのはこの場では言わずもがな怪盗のことである。頭突きを食らいたんこぶをこさえた額の上を押さえたくなるのを堪え、彼は今その怪盗「紳士」の呼び名には些か不釣り合いな正座をしている。カーペットの敷かれていない堅いフローリングの上で、猫背気味に。
彼の前に仁王立ちした探偵は、誰もが身を縮こまらせるような声音で「許さねぇ」と呟いた。
「理由を聞いてやるつもりはねぇ。原因を聞きたいとも思わない。ついでにお前が言いたいことを聞いてやるつもりもない」
「全面拒否!?」
「ありがたく辞退してやった。感謝しろ。そして帰れ」
ああ女王様の共犯者はやはり女王様だ。
さぁ話は終わりだとっとと帰りやがれというように寝台の上に戻って再び分厚い本を手に取った探偵を、怪盗はただ見上げる。怪盗の弁を聞くことを拒絶した彼には何を物申そうと聞こえないだろう。彼の意志の固さはダイヤモンド並みだ。
それでも伝えたいことがあるのだ。怪盗は正座は解かなかったが少しばかり上体を前に屈ませて、覗き込むようにして探偵を見上げた。
「でもな、名探偵」
「呼ぶな」
「俺さ」
「その顔で、声で、俺に話しかけるな」
表情を浮かべずに探偵は言う。
「俺は、聞かない」
目を閉じた探偵に、怪盗は笑みを向けた。
美しい青年だ、と思った。
探偵と己の顔の造形がこの上なく似通ったものであることを、怪盗は知っている。そっくりだ。そのものだ。同じものだ。なんとでも言ってしまえるほどに似ている。目を閉じて人形のように沈黙をしたなら二人を見分けられる人間がどれほどいるだろと疑問に思ってしまえるほどだ。目を開いて声を出しても、違うのは浮かべる表情だけと言ってしまいたいが、その重要な差異さえも怪盗KIDの変装技術にかかれば些細な違いになる。つまり二人には外見的な違いがない。そして一方がその気になれば、 その一方はいつだって限られているが 少し話したくらいでは見抜かれないほど、もう一方の存在になりきることができる。ぜなら怪盗は、探偵をよく知っている。知ろうとしたことがあるからだ。
だから今、怪盗の前で頑なに怪盗を拒絶する探偵が考えていることなど、ほとんどお見通しなのだ。
愛しい存在だと感じた。血は繋がっていないし、一緒に育ったこともない。それどころか二人がそれぞれの本当の姿で相対したことなど、それこそ数える程度でしかないというのに。
名探偵、と。もう一度彼に呼び掛ける。恋人に愛を語るように、それ以上に、優しい音色での呼びかけだった。
「お前がどう思おうと関係ない。もうそんな段階は通り過ぎたんだ。ごめんな名探偵」
怪盗の勝手な語りに探偵は何も返さない。目を閉じたまま、早くこの場から立ち去れ、と無言の圧力をかけてくる。
少しだけ挫けそうだと思った。でも最悪の場合背を向けて逃げられると思っていたから、無視されても聴いてもらえるだけマシなのかもしれないが。
「俺はもう逃げないよ」
たった一言でもいいからもう一度、探偵の声を聞かせてほしいと思った。もちろん探偵は探偵らしく怪盗の望みを拒み、何も口にしようとはしない。
怪盗の言葉を聞くことを拒絶した探偵にその言葉の真意が届いたかは分からない。けれど、彼は怪盗の言葉を聞いてしまった。今は拒んでもいつかはきっとその言葉の意味を受け止めてくれるのではないだろうかと、そう願うだけなら許されるだろう。
願うことが許されるなら、怪盗はそれで満足だった。
鍛えた身体は数分の正座などでは痺れたりしない。ひょいと身軽に立ちあがった彼は先ほどまでの猫背をしゃきんと伸ばして踵を返した。ただし向かう先は窓である。玄関ではない。それを探偵も止めなかった。
「またな、新一」
別れの挨拶には枕が飛んできた。
無知と愚かは同等ではない。ない、のに、新一はどちらも己に当てはまることを知っている。世界という枠組みの前にはどうしたって無知でしかなく、無知だからこと愚かであるしかなかった。だがそんなことは言い訳にはならない。彼にとっての問題は自分が自分に、無知で愚かであることを選択させてしまったことにある。
悔むことは簡単だ。だから後悔はしない。開き直ることは軽率だ。だから振り返らない。
そうして立ち止まることを許さなければ見えてくるものもある。新一は前に前にと歩きながらも月夜を見上げては俺は無知で愚か者だと声を張り上げたくならなくなる。そしてそんな思いを抱かせた相手のことを罵りたくなる。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!
己の頭脳と才覚を誇っている。両親から優れたものを与えられ、自ら鍛え磨いてきた。才能で足りないものも貪欲に得ようとした。それでも届かない存在は、いくらでもある。そのひとつに、新一は思いを馳せる。
「ぜってー、許さねえ」
凌辱された気分だった。
もちろん新一にはレイプされた経験がないから凌辱というのは間違いだ。それでも怪盗の姿を見ると、怪盗のことを思うと、とてつもない吐き気と頭痛に苛まれる。
憎いのだ。新一を探偵と認めながら真実を暴くことをさせなかったあの男が。
思う相手はただ一人、月夜に現れる同じ顔をした怪盗紳士。