ガラスを一枚隔てた向こうに、快斗の求める人の姿があった。自室のベッドの上で、壁に背を預けて膝を抱き込むような姿勢を取っている。視線は手元の推理小説に向けられており、来客の存在にはまだ気付いていない。全く無防備なことだと、思わず笑みが漏れた。
時刻は夜の10時を過ぎている。人の家を訪れるには些か非常識な時間帯だ。だが快斗にはあまり関係がない。そもそも、玄関でインターホンを押してこない時点で、彼は非常識な来客である。
ちょちょいと鍵を弄り、窓を開けた。そこでようやく名探偵が顔を上げる。だが予想外にも彼は驚いた表情を見せることなく、蒼い瞳だけが異様なほどにギラギラと輝いていた。「こんばんは!」と明るく声を掛けようとしていた快斗のほうこそがその眼差しの強さに驚いてしまい、立ち上がって近づいてきた新一に対して「こん、ばん、は……」と情けない声での挨拶となった。
「名探偵、どうかし 」
目の前を風が切った。何かが勢いよく眼前を通り過ぎていく。
超人的な反射神経のおかげで快斗はその“何か”を避けることに成功した。それでもぎりぎりだった。安堵の息をつく間もなく、再度、それは襲い掛かってくる。二度目の襲撃は先ほどより余裕を持って避けることができた。そして三撃目を後ろへ後退して避けようとしたところで、出来ないことに気がつかされる。背後には壁が迫っていた。そして右側にも。一撃目で入口に使った窓から距離を置かされ、次の攻撃でさらに離され、そしていつの間にか部屋の隅へと追い込まれている。攻撃は左手から向かってきている。どうするべきかなどと悩む時間はなかった。快斗は勢いよく、しゃがんだ。それは快斗の髪の毛を掠めていった。ドゴッ!と、破壊の音が静かな夜に響く。
彼は恐る恐る、上を見上げる。壁に穴が開いていた。そこから“何か”が生えている。勢いよく快斗に向かってきたそれが壁に穴を開けたのは、説明するまでもなかった。
正面から舌打ちが聞こえる。べきょりと音がして壁からそれが引き抜かれ、ばらばらと破片が落ちてくる。引き抜かれたそれは人の足だった。快斗はそっと、その足の持ち主を見る。怒りに染まる蒼い双眸と視線がかち合った。
「コンバンハ、めーたんてー」
冷や汗がたらりと米神を伝う。快斗はにこりと笑った。だが笑い方を失敗して、それは引き攣ったものとなった。
めーたんてーと呼ばれた新一は、不愉快であると言わんばかりに、快斗を見下して腕組みをした。
「言い訳を、聞かせてもらおうか」
「なんのでしょう」
こてんと首を傾げた快斗に、さらに新一は目を釣りあがらせた。
「俺に言うべきことはないか、こそ泥」
腕組みが解かれる様子は無い。快斗は強張った笑みを顔に貼り付けたまま、かつて無いほど必死に記憶の糸を手繰り寄せた。名探偵を怒らせるようなことをしたかと聞かれれば頷くだけのことはしている。なんと言っても己は怪盗で犯罪者。頷かなかったらそれこそ殴られるか蹴り飛ばされる。しかし名探偵に言い訳をしなければならないこととなると、どうにも思い当たることがない。
強いて挙げるなら、先日の行き倒れだろうか。名探偵の帰宅が己の体力が尽きそうな時と重なったから、ならば名探偵に介抱されてしまえと思って彼の自宅の門前で行き倒れを装ってみた。悲しいことに、相手にされなかったが。
或いは、灰原嬢に介抱された後のことかもしれない。快斗の顔を見た連中は、快斗のことを工藤新一だと思った。それは当然のことだった。工藤新一はそこんじょらの芸能人よりずっと有名である。以前よりはメディアへの露出を抑えているとはいえ、姿も名前も変えず、以前と変わらずそのままに豪邸に住んでいる。一般人からのファンレターさえが家に届くのだ。悪いことに手を染めている人間が、工藤新一を探し出せないはずがない。何より新一は少し前まで、世界的な犯罪組織と戦っており、その組織を壊滅状態へと追いやった人間である。末端とは言え犯罪組織に関わるものであれば知っていて当然だ。よって快斗を襲った奴らは何らかの方法で、名探偵を亡き者にしようと考えたはずである。事故死にでもしてしまえと考えていたかもしれない。それとも、裏社会で名を轟かす名探偵が相手では勝ち目は無いと考え、トンズラかまそうとしたかもしれない。その方が利口であろう。しかし行動を起こしたのは名探偵のほうが早かった。所詮は組織の下っ端。踏んだ場数が違うというものだ。探偵は怪盗からその組織の下っ端共の話を聞くや否や、FBIと警察の知り合いに連絡をし、ささっといとも簡単に捕まえてしまった。罪状は麻薬取締り法違反やら銃刀法違反やらである。手錠が掛かる瞬間までは、傷害罪の現行犯逮捕であった。無論、名探偵が自らの身を囮にしてのことである。物陰から事の成り行きをこっそり覗き見ていた快斗は、相手を挑発する名探偵を見てハラハラし、「うっしゃ、自己防衛成立」とその唇が動いたのを見てアワアワした。そして今、新一の服の袖からは白い包帯が見えている。
だが、行き倒れにしても下っ端連中とのことにしても、言い訳を求められるにしては「今さら?」と思わないでもない。一つ目には「力尽きて」。二つ目には「ちょっと失敗して」という言い訳が、既に為されているからだ。
一瞬、怪盗KIDのことが脳裏を過ぎった。名探偵のことだ。KIDがビックジュエルしか盗まないことには理由があることに、気付いていても可笑しくはない。もしかしたらその目的すら知ってしまっているかもしれない。ならば代替わりしてまでKIDが存在し続ける理由、その言い訳を尋ねることもあるだろう。しかし思い浮かんだその考えは瞬時に否定した。気付いたからといって、知ったからといって。それが何になるというのか。探偵が知りたがっているのはいつだって真実だ。怪盗KIDが怪盗KIDとしてある目的を知ったなら、その言い訳を求めるような人間ではない。
結論として。快斗が新一に言い訳をしなければならないことが分からない。
快斗は立ち上がって名探偵と視線を合わせた。
「……ごめんなさい?」
黒羽快斗としては珍しいとても真剣な表情で謝罪をした。しかし、最後にクエスチョンマークをつけるべきではなかった。言い訳しなければならないことが分からなくてごめんなさい。ついでに言うなら謝るから怒らないでくれると嬉しいな。でも無理なんだろうな。という快斗の思考が丸出しである。
ふんと、新一は鼻を鳴らした。
「思い当たることもねぇってか。なら、ここに来た理由はなんだ」
「名探偵に会いたかったから」
即答した。本音だった。
名探偵は腕組みを解いて笑顔を見せた。だが怒りが解けたわけではないことはその営業用の笑顔で明らかだ。快斗は逃げようとした。それより先に、新一の手が快斗の顔を柔らかく挟み込んだ。
営業用数割り増しな笑顔の新一が顔を寄せてくる。え、なに、何事だと快斗は内心で慌てた。反面、もしかして凄くハッピーなことが起きるのかとちょっとばかり期待した。
その直後。
激しい鈍痛と共に、くらりと世界が揺れた。
覚えのある痛みだった。何度か経験している。それが、今、この瞬間に、この目の前の人物によって齎されたことに、快斗は驚愕せざるを得ない。
しかしその驚愕を感じ入っている余裕はない。快斗は額を押さえて蹲った。
とてつもなく、痛い。
あまりの痛みに、ぐぐっと奥歯を噛み締めなければならなかった。
「まさか名探偵に頭突きをされる日が来るとは思わなかった……」
「……俺も、怪盗に頭突きをする日が来るとは思わなかったよ」
涙を堪えて痛みに耐える快斗のすぐ近くで声が上がった。涙目で見やれば、快斗と同じように額を押さえて蹲る名探偵の姿が目の前にある。
「なんで頭突き?」
「泣いて謝ってくれば多少は俺の苛立ちもおさまるかと思ったんだよ」
「そもそも俺を泣かせる方法がおかしい!暴力反対!しかも頭突きでとか初体験だよ!」
「蹴っても避けるじゃねえか」
「殴るとか」
「手が痛くなる」
「今、おでこがすごーく、痛そうなんだけど」
「うるせぇよ」
黙れというように、強く睨まれた。が、それはつまり、涙目での上目遣いである。快斗は思わず深呼吸をした。痛みではない別の何かをやり過ごす為に。
「ちくしょう いてぇ……」
細く震える名探偵の声が聞こえた。泣いているみたいだと思った。けれど自分は泣かなかったから、負けず嫌いな名探偵は泣いていないのだろうなと思った。
「……おでこにコブをこさえた怪盗KIDなんて、かっこわりー」
次の仕事は明日の夜だ。
ザマーミロという声が、名探偵から上がった。
しかしその声はやはり、泣きそうに震えていた。