組織は壊滅させたけれど、残党は残っていた。おかげで以前のような安穏とした生活を送るのは難しかったかったが、それでも復学した高校に幼馴染と共に通い時には放課後に友人たちとサッカーゲームをし、協力者であった警部らが気を利かせつつも事件とあらば呼び出してくれたりと、コナンとして生活をしていた時よりは格段に平和的な満ち足りた時間を過ごしていた。どこかに狙撃者がいるかもしれないという不安は変わらないが、子どもの体と成人間際の体とでは、ハンデの違いにかなりの差がある。気付くことさえ出来るなら、大切な誰かを守るための盾となることができるのだ。無論、ただ守るだけの存在であるわけがなく、向けた刃がそのまま相手に返るような盾である。つまりは彼はもう、庇われてばかりな子どもではないのだ。その安心感は危険を呼ぶが、街中ですれ違う人々に怯えなければならなかったあの頃とは違うのだ。
よってその日も新一は幼馴染を彼女の自宅まで送り届け、何事もなかったことにほっと無意識に肩の力を抜き、寄り道することなく帰途へと着いた。ここ数日は呼び出しもなく、穏やかな1日を過ごしている。今日も夜まで買い貯めた推理小説に没頭する予定である。何よりも謎を愛する新一だが、事件が大好物なわけではない。殺人は起きなければ起きないに越したことはないのだ。よって出不精な新一の放課後は、もっぱら読書の時間へと費やされる。子どもの時に読めなかったものを全て読み尽くさんばかりの勢いだった。
物足りなさをこっそり胸の奥に抱きながらも、新一は自宅の正門へと続く道の角を曲がり、そこでこてんと首を傾げた。
門の前に、何か黒いものが置いてある。
(なんだ?粗大ゴミか?)
その正体が判別できる距離まで近づいた新一は、嫌なものを見た、とばかりに相好を崩して視線を逸らした。
人だった。人が、倒れている。
見た目は新一と変わらない年頃の青年だった。黒いジャケットに黒いパンツ、インナーまでが黒と、全身真っ黒な出で立ちは、イメージ的にあまり健全ではない。ファッションであると主張されればへぇそうなのと頷けなくもないが、その人の服はお洒落よりも機能性を重視したものと見て間違いがなかった。靴は吸音性の高いゴム底で、極め付けが皮の手袋である。夏も終わりに差し掛かるとはいえ、手袋を着用するにはまだ時期が早い。安易ではあるが、泥棒ですかと問い質したくなるような格好だ。
それでも相手が人間であり、しかも死体でない以上、通りすがりを装って知らん振りをすることは躊躇われた。なんといっても此処は新一の自宅の前なのだ。いくら幽霊屋敷と噂されていようと、今は新一が住んでおり、それは隣家はもちろん警察関係者も知っている。家に入るには門を開けて入らねばならない。何も見なかったふりをして家に入っても、もし他の人間が通ったならば問題になるだろう。間違いなく警察か救急車が呼ばれる。そして新一の自宅のインターホンが鳴らされるか電話がかかってくることを予想するのは容易い。そして聞かれるのだ。この死体の如く動かない人間は?と。つまり新一は、この行き倒れの人を無視はできない。
とはいえ、新一とてそれなりに常識を弁えた人間だ。それなりに。人が倒れていれば駆けつける。大丈夫ですかと声を掛けて相手の状況を把握しようと努め、場合によっては心肺蘇生を躊躇い無く実行する度胸も知識も経験もある。
それをしないのは、倒れたその人物の横顔に、どうにも心当たりがありすぎるからだった。否、心当たりなんてものではない。伏せるように倒れているが、顔の半分は見えている。その伏せられた瞼の奥に潜む瞳の色は分からずとも、すっと通った鼻筋や顎のライン、なにより唇の形を、新一は幾度か見たことがあった。しかも、最後に見たのは、つい2日前。
新一は大きな溜息をついた。わざとらしいにも程があるだろと思った。
人通りの少ない道ではある。だが絶対に人が通らないような場所でもない。何より今は、お天道様の輝く真昼間である。この場所にこの時間帯に、これだけ怪しい人間がこうも目立って行き倒れている理由など、そう多くはない。
新一は携帯を取り出した。
「あ、中森警部ですか?お忙しいところすいません。僕、工藤新一です。実はですね、僕の家の前に 」
手から携帯が消えた。
見れば、憮然とした表情で、つい今しがた道端に倒れていた青年が新一の携帯を手にしている。
「……せめて、通報する前に抱き起こして怪我が無いかを確かめるぐらい、してくれてもいいのでは?」
ふんっと、新一は鼻で笑う。
「狸寝入りかましてたヤツを心配する優しさなんて、生憎、持ち合わせてないもんでね」
「そのようで……名探偵の親切心を期待した私が愚かでした」
「だな。返せよ、携帯。中森警部の番号なんて知らないってのに、それを知ってるくせに起き上がるタイミングがベタだなてめぇも」
「電話する振りをする名探偵も、ね」
わざとらしく大きな溜息をついて、青年は新一の右手に携帯を落とした。
その腕を新一は掴む。
「名探偵?」
「とりあえず話は、その右腕の怪我の手当てをしてからだな」
不本意だという本音を隠そうともしない不機嫌な声。それに反して、逃がさないとばかりに掴まれた左腕。
「……やっぱ、親切じゃん」
呆けたように呟いたその言葉に、新一はふふんと笑みを返す。
怪盗がその笑みの本当の意味を悟るのは、その10分後のことだった。
そう、それで?
少女の姿をした探偵の主治医は、彼女の身には不釣合いなほど大きな椅子に腰掛けて足を組みなおし、赤みがかった茶髪をさらりとかき上げてつまらなそうに言った。姿は小さい。けれどまるで女王様のようだと探偵は思う。座り心地抜群なその椅子は、腰痛対策にと新一が博士へ贈ったものであるのだが、今この瞬間だけは少女の玉座と化していた。大きな団扇で仰ぐ従者が隣に控えていても、なんの違和感もないだろう。むしろ自分がその従者の役を担うべきかとすら思ってしまう。
そんな新一の愚かしい考えを読んだわけでもあるまいに、工藤君、と哀は冷ややかに新一を見上げた。思わず背筋を正してしまう。彼女が視線を向ける先が自分ではないからとすっかり傍観者になっていた。見ればその対象者はすっかり縮こまってしまっている。いつもの飄々とした態度はどこへ行ってしまったのか。彼なりに思うところがあってのことだろうとはいえ、とてつもなく貴重な光景であることは想像容易い。さすが灰原だと新一は一人納得した。
あのね、工藤君。頭痛を堪えるように頭を振って哀は言う。
「私は確かに『白い怪盗さんにお礼を言わなきゃね』と言ったけれど、お礼と一緒に事件を連れて来いとは行ってないわよ」
「いや、さすがにこれは俺も不本意というか不可抗力だと思うんだけど」
「そうです、名探偵は悪くありません。全ては私の未熟さが原因です」
あ、馬鹿、と新一は思った。
そうね、と哀は鷹揚に頷いた。
「理解しているのなら問題を片付けてから私の前に顔を出して頂ける?事前報告なんていらないの。もちろん事後報告も途中経過も結講よ。それとも何かしら。自分が名探偵と同じ顔をしているのは不可抗力だから相手に顔を見られてしまったのも工藤新一だと思われたのもそれを逆に利用して相手と喧嘩をして見事勝ちを得たのも、全て未熟者の為したことで工藤君は無関係だと?ならどうしてどこぞの白い怪盗さんは真っ黒なお洋服で工藤新一の家の前で倒れていたのかしら」
「それはです、ね……」
「あぁごめんなさい。それはさっき聞いたわね。ちょっと物騒な倉庫に忍び込んでちょっと失敗をしてしまって、相手を潰したけれど一人取り逃がして、その矛先が向くであろう自分と顔がそっくりな何処かの探偵さんに報せようとしてくれたのよね。そして力尽きてしまったのよね。そして遊び心で名探偵の帰宅を待って行き倒れを装ったのよね可哀相に全く相手にされなかったようだけれど。それでも全身の打撲と肋骨のヒビ。右腕上腕部の裂傷。怪我による発熱。そんな体で無理をして訪ねてきてくれたのなら、お礼を言うべきはこちらかしら。でもどうしてその自業自得な怪我の手当てを全く無関係な私が引き受けなければならなかったのかしら。いいえ別に目の前にいる怪我人を放っておくほど私だって冷たい人間になろうとは思っていないわよ。それでもね、どうしても解せないこともあるのよ。別に怪盗が探偵を助けようと怪盗を探偵が拾おうと私は気にしないわ。力を借りたのは事実だものお礼を言おうと思っていたわ。でもね、だからこそ、なぜ私たちに関わりのない正体不明の組織に高校生探偵が狙われなければならないのかと、少しばかりの理不尽さを覚えてもいいとは思わない?ねぇ工藤君」
「えーと、まぁ、そうだな……」
頷いていいものか刹那迷った末、彼は控えめに頷いた。口を挟む隙を与えない哀に呆けていた怪盗は、おずおずと身を乗り出す。
「あの、ドクター、」
「何かしら?怪盗さん」
にこりと、小さな医者は微笑んだ。小学生とは思えないほど整った完璧な微笑みだった。新一は背筋を凍らせた。やっぱ連れてきたのは間違いだったのかなぁ、と今さらながら悔いた。言い負かされる怪盗が見たかったのだが、どうやら怪盗は思わぬお土産を持ってきていたようだ。さすがにそれは予想していなかったのだから、仕方が無いと言えばそうなのだが。
キッドは助けを求めるように新一を見た。悪いな無理だ、頑張れよという意味を込めて新一は頷いた。
覚悟を決めたように、キッドは哀を見つめ返した。
が。気丈にもしっかり上げたはずの顔が、すぐにぽてりと落ちる。
「ご、ごめんなさい……」
小さなドクターはすっと笑みを消し、怜悧な金茶の瞳で怪盗を見下ろした。
「この、大馬鹿者」
言い返すことなくぐっと押し黙った怪盗にはもう用は無いとばかりに哀は椅子から下り、使い終えた医療道具を棚へと仕舞いこむ。新一はそれを手伝った。彼女が背伸びしなければ届かないようなところにも、今の新一なら簡単に手が届く。ありがとうと見上げてきた哀の瞳は穏やかで、今の今までの饒舌さは何事だと疑いたくなるほどだった。かといって「怒ってたんじゃないのか?」などと聞く愚は冒さない。新一は小さく頷いて、こっちこそサンキュと伝えた。あなたにお礼を言われるほどのことではないとでも言うように、彼女は目を伏せる。
「組織っていってもアイツ等ほどのもんでもないし、どうにかなる。ていうかどうにかするから、お前は要らねぇ心配するんじゃねえぞ」
話を聞いた限りでは、警部たちの協力があれば簡単に片が付きそうな存在なのだ。怪盗が失敗したというのが信じられないほどである。きっと“工藤新一だと”思われることが無ければ、怪盗は一人で全てを終えたのだろう。もともと新一の顔は探偵としてかなり広く知られている。黒の組織以外でなんらかの組織と直接のかかわりを持つことがなかっただけで、どこに行っても邪魔者であることに変わりは無いのだ。いつ命を狙われても仕方が無い。だから大したことではないのだと、本当になんでもないことのように言った。かつて自分に向けられた銃口に怯えていた彼女を安心させるために。
哀は新一を見上げた。
誰かさんと誰かさんはそっくりなのねという彼女の呟きは、おーい灰原君お茶がはいったぞいという長閑な博士の声にかき消された。