先に触れたのは怪盗だった。白い手袋を嵌めたその手が彼の頬に触れ、撫ぜる。もしかしたらその手はかすかに震えていたかもしれない。夜風に吹かれたその手は冷え切っていたかもしれない。しかし白い怪盗の温もりも何もかもが白い手袋に阻まれて、彼に伝わるものはなにひとつなかった。それでも、その手袋越しでも分かる綺麗な形をした指先が自分の頬に触れた時、彼は、まるで愛しいものに触れるような仕草だと、少しばかりの居心地の悪さを覚えたのだ。
そう、それは愛しいものに触れるような接し方だった。その手の先の、中指と人差し指が最初に触れ、頬の輪郭をするりと滑って薬指と小指が。そして親指が、唇をかすめていった。ほんの一瞬だった。故意にか偶然にかと考えるのも愚かしいほど一瞬で、そのおかげで彼はなんの反応も返すことなくポーカーフェイスを貫くことができて、心の内で安堵する。というのも、彼は怪盗ほど、ポーカーフェイスが得意ではないのだ。いつも知り合いの警官たちの前で猫を2匹も3匹も被ろうと被害者や容疑者たちに伝説的女優仕込みの演技で接し慣れていようと、自分より一枚も二枚も上手な人間が相手ではその普段は完璧な演技も表情も、通用するとは思えない。だから頬に触れられ唇に触れた時に、彼がほんの僅かでも胸中で動揺したことなど、もしかしたら怪盗には全てお見通しかもしれないし、気がつかないだけでほんの少しばかり眉根に皺を寄せてしまっていたかもしれない。けれどそれは今のお互いの距離を思えば、なんら不自然でもない表情だった。今、怪盗の手は、彼の耳たぶの下から顎のラインに沿って添えられていて、彼の頬を親指がゆるゆると撫ぜている。まるで恋人に触れるようだ。彼は少しばかりどころか、かなりの居心地の悪さを抱き始めた。
おい、KID。いよいよ耐え切れなくなった彼は、怪盗の名を呼ぶ。優しく撫ぜていた指の動きが止まったけれど、彼の頬から離されることはなかった。手の平全体で包み込むようにして触れられる。なんです、名探偵、と涼やかな声が返された。手の動きと声がなんとも釣り合っていない。器用なやつだと彼は思った。そしてその時になって初めて、彼は怪盗と目を合わせることができないことに気付いた。彼はずっと怪盗を見ている。だが、常時こちらの視線をまっすぐに見返してくるはずの怪盗の瞳は、彼には読み取れない何らかの想いを宿して、少しばかり伏せられている。視線は、彼の唇のあたりに落とされている。彼とは全くの別物を見ているわけではないことに満足するも、1割ぐらいだ。残りの8割は俺を目の前にしてどこ見てやがる、といったところで、あとの1割は、やっぱりこれって素顔なのかなそうなのかな、といった好奇心。だが覗き込もうとしても頬に添えられた手がそれを許さなかった。己と目を合わせるのを避けているのだと判断するのに、彼に躊躇いはなかった。理由を推理する必要すら感じなかった。今度はしっかりと柳眉を歪めて、不愉快であると言わんばかりに、おい、と声をかける。怪盗の肩がぴくりと震えた。
「てめえ、こら、KID」
彼は、己に触れる怪盗の手を取った。誰が見ても明らかなほどに、はっきりと、怪盗の身体が震えた。
「言いたいことがあるなら、さっさと言え。俺はてめぇと恋人ごっこするために、わざわざ来てやったわけじゃねぇんだ」
さらに言うなら、予告状通りに獲物を頂戴して颯爽と現場から飛び立った怪盗から、翌日には返却されるであろう宝石をわざわざ受け取りに来たわけでもなかった。場所は17階建てビルの屋上。両隣には25階以上の高層マンションが建っており、真正面か真上に来なければ彼らの姿は認めにくい。
彼がこの場所に立つに至った経緯を簡単に述べるには、6時間ほど前にまで遡る必要がある。彼はつい数日前まで他の事件に関わっていた。殺人事件ではない。もっと込み入った事情のある、彼個人にかかわる事件だ。それがとりあえず一段落ついた為に、もっと休んでからだと主張する主治医の少女の言葉を強引に振り切って、警視庁へ顔を出した。彼がつい数日前まで関わっていた事件の協力者の一人である目黒警部に直接会う為、というのが建前で、彼自身が動き回りたくてたまらなかったのである。「少しは我慢することを覚えなさい」というのは、出る間際に投げられた主治医の少女からのお言葉である。ついでに、「帰ったら覚悟なさい」というメールが携帯に送られてきた為に帰宅を躊躇っていたりするのだが、それは余談である。
警部は彼の無事な姿を見止めるや、おおいに喜んで彼の肩を抱きしめた。その隣にはFBI関係者もいた。もちろん彼もよく知る人物であり、彼らは抱擁を交わした。しかしそんな彼らのことなどお構い無しに、警視庁内はおおいに慌しかった。いつにない騒がしさに何事かと問えば、今回はまだ一般には流れていないのだがねと神妙な顔をして、警部はこっそりと内部情報を流してくれた。つまり、怪盗KIDの予告状である。おまけに警部はその内容の文章まで親切にも教えてくれた。
そして彼は、このビルの屋上へと足を運んだ。
理由は2つある。ひとつは、今回の予告状に逃走経路が書かれていなくとも警察の包囲網とKIDの動きから怪盗の帰路が読めてしまった為に、その推理が正しいかどうかのその確認。家で注射器を片手に彼を待ち構えているでろう少女を思い、帰宅を少しでも遅らせられないかというちょっとした現実逃避が彼の好奇心を刺激した。そして、2つ目。実際にはこちらの理由が本命なのだが、その点に関する彼の自覚は薄かった。
彼の読みは正しかった。両隣のビルによって発生する強いビル風により、白いハングライダーは墜落するように彼の前へと着地した。風の威力に負ける直前に羽を折り畳んで落ちる様は、見事のひと言に尽きる。遠目から怪盗を追う者があったなら、ビルに差し掛かった途端に消えたようにしか見えなかっただろう。
そうして現れた白い怪盗と、彼は対峙した。距離は5mと離れていなかった。先に動いたのは彼自身で、彼は強気な笑顔で、よう、と怪盗に声を掛けたのである。
「この姿で会うのは初めてだよな……礼を言うぜ。ご覧の通り、無事に戻れた」
感謝していると、彼にしては殊勝な台詞が口に出されるより先に、怪盗が動いた。ほんの5m足らずの距離をあっという間に詰め、一歩分の距離を置いて立ち止まる。
そして頬に伸ばされた指先。温もりの伝わらない白い手袋越しの接触。
怪盗は無言だった。そして彼は、ポーカーフェイスを装った。怪盗に胸中を読まれるのを畏れたのでは決して無い。今夜は怪盗を捕まえるつもりで来たわけではないから、隠さねばならない思考など何も無いのだから当然だ。それでも彼は笑みを消して無表情を浮かべ、怪盗の動向を窺うような視線を怪盗に向けた。かつてないほど近くにある怪盗の口元が、泣くのを堪えるように歪み引き締められたのを、彼 新一は、見てしまったのだ。
小さな探偵である江戸川コナンが工藤新一の姿に戻ったのは、5日前。薬を飲んだのはその前日。高熱と全身を襲う痛みに意識が朦朧とする半日を過ごし、耐え切れずに気絶してから目が覚めたのは3日後。1日をベッドの住人として過ごし、半ば無理やり身体を起こして動き始めておよそ36時間が経過した。
そして江戸川コナンが最後に怪盗と対峙したのは、2ヶ月ほど前のこと。「江戸川コナン」が海外にいる両親のもとへ去り、病死の報せが毛利探偵所に送られる1週間前だった。その日のことを、新一はよく覚えている。
新一が手にしていたのは「江戸川コナン」の偽装された死亡診断書と火葬許可申請書。そして、日本に住む「江戸川コナン」とかかわった人たちへ送る手紙。それらを、未だ子どものままであった新一は目の前に山積みにしていた。世話になった探偵所や少年探偵団ぐらいにしか送らないだろうと思っていたものだから、両親の用意した手紙の量に、こんなにコナンの関係者っていたのかと不思議な感慨を抱いていたのである。日本から出ることが決まった時から、コナンを捨てることは決めていた。死ななければならないことも決まっていた。元は実在しない人物であるはずなのに葬式がされるのだからおかしなものだと、コナンとしての思い出が痛むのを誤魔化して苦笑していた。きっとあの人は、あの子たちは泣いてくれるのだろうなと、胸が痛むのはどうしようもなかったから、笑っていた。そうしないと、ほんの少し、歩みが遅くなりそうだった。
日本にいる、信用できる協力者。そしてFBIを始めとする組織の対抗者たち。隣にはかつてシェリーと呼ばれていた少女がいて、黒の組織へ流れる資金を絶つために、その中枢となる企業へのネットワークを通しての攻撃を始めていた。引き返そうとは微塵も考えていなかった。ぶっ潰してやらぁと息巻いて動いていた。組織の人間に追いかけられた時もあれば追い詰めた時もあり、灰原に説教された回数は数知れず。もう二度と普通の高校生探偵にはなれないんだろうなぁと空を仰いだのは、一度や二度のことではない。それでも、立ち止まることは許せても、歩みを止めることは許せなかった。だから「組織を潰してからのほうがいい」と言う周囲の反対を押し切って、コナンは病死したのである。万が一にもコナンという存在が逃げ道とならないよう、コナンを死なせてしまった。
「江戸川コナン」の死亡届けを前にした新一に、怪盗KIDは現れたのだった。「よぉ、ぼうず」と気障な微笑みをその口元に宿し、白い紳士服ではなく黒いジャケットとデニムのパンツといったとてつもなく普通の格好をして、堂々と探偵の住む部屋を訪れた。
その時のことを、新一はよく覚えている。
掴まれた腕をそのままに動かない怪盗を訝しみながらも、新一は少しだけ笑った。
「お前がいくつかの財源を断ってくれたおかげで、企業への介入がしやすくなった。言われるまでもなく知ってるだろうけどよ、例の薬の情報も、破棄される前に取り出せたし……そこんとこ、感謝してんだぜ」
言わずもがな、俺様個人主義な工藤新一にしては、とてつもなく珍しい物言いだった。彼は基本的にプライドが人の2倍も3倍も高く、それ以上に照れ屋なのである。率直にお礼を述べることは彼の苦手とする最たるものだ。それを知ってか知らずか、恐らくは前者であろうが、怪盗は心持口元を緩めたようだった。
あの日、怪盗が新一のもとへ来なければ、この身体に戻ることはもっと先のこととなっただろうと新一は思い返す。FBIが動いたことに勘付いた組織は、他企業との契約に今まで以上の慎重さで勧めるようになっていた。新手の企業との契約は難しいだろうと計画を1から変更せざるを得ない状況で、どんな目的を持ってどのような手段を用いて盗み出したのかは不明だが、怪盗KIDが幾つかの企業の極秘資料を手に新一のもとを訪れたのだ。組織の大きさは計り知れない。それでも尻尾といわず足のつま先まで掴めればこちらのものだと、新一たちは無謀な計画のままに打って出たのである。小さな体のままに企業へ忍び込んだこともあり、よくも無事に事が運んだものだと関係者に呆れの溜息をつかれた記憶はそう昔のものではない。全てが終わってからだからこそ新一自身も「俺ってほんとにターゲットに向かってまっしぐらだよなぁ…」と苦笑していられるものの、幾度とない逃亡劇の最中、自分たちを陰から援護してくれる存在のことを、当然ながら気付いていた。この怪盗が、資料だけ渡してそれで退場、なんてことをするはずがないのだから。
握っていた手を放すと、その白い手袋はすんなりと新一から離れていった。先ほどまで優しく触れていたのが嘘であるかのように、あっさりと。けれど頬に残る布の感触は確かなもので、むず痒いような想いに駆られて思わず新一は自分の頬に手で触れる。白い手袋は怪盗の体の両脇にあるのに、まだ触れられたままかのようにその部位は熱を持っていた。
眼差しはシルクハットの陰に隠したまま、怪盗は口を開く。
「私は私の目的のために名探偵を利用させて頂いた。礼には及びませんよ」
「言うと思ったぜ。けどよ、助けてもらったのは事実だ。この俺が、工藤新一様が礼を言うんだ。ありがたく受け取っとけ」
「なるほど。それならば確かに受け取らなければなりませんね」
怪盗が肩を揺らして笑った。それに気をよくして新一は笑みを深める。先ほどまでの彼の様子は気になるが、相手と自分の立場を考えるならば詮索するのは得策ではない。だから怪盗が怪盗らしい姿を取り戻したことに、彼は知らずうちに緊張していた己の気持ちを改めた。
「もう小学生のガキじゃねえ。遠慮なく追い詰めてとっ捕まえてやるから、覚悟してろよ」
確保不能の怪盗KIDと、高校生探偵工藤新一。正しくあるべき場所に立てることに満足し、言うべきことを言い終えて、新一は踵を返す。
ビルの中へと続く扉を潜り抜ける間際、じゃあなと肩越しに手を振る彼に怪盗は小さく、名探偵、と呼んだ。
「次に会ったら、その時は……俺のこと、馬鹿野朗だって言ってやってね」
扉が閉ざされる刹那に振り返った怪盗は、その口元を泣きそうに歪めていた。
なんでそんな顔をするのだと問い詰めれば良かったと後悔するのは、扉の閉ざされた音を耳にしてからのこと。再び開けたところで姿を見せないだろう怪盗を思い、新一は頬に指先を滑らせた。
感じたはずのない怪盗の指先の温もりが、まだそこにあるようだった。