澄み通った藍色の宵空に、半円の月が濡れて滲む。
高い天幕一面に星々は散りばめられている。雲ひとつない夜空は明日の好天を予想させた。
「月見酒には絶好だな、今日は」
後ろからかけられた声に、元暁は振り返った。気配でそこにいるのは知っていたから、さほど驚きはしない。「そうですね」元暁は微笑む。
そのまま通り過ぎるかと思いきや文秀は元暁の隣りにまで歩いてきた。上機嫌に鼻歌を歌っているところを見ると、既にどこかで飲んできたようだ。大方相手は幽霊部隊の隊長か国王あたりだろう。もしかすると「朗」の青年を引っ張り出したのかもしれない。彼は文秀のお気に入りではなかっただろうか。
「いつも不思議に思っていたんだが」
「何をです?」
「どうして悪獣どもはみんな、月を見上げているんだろうな」
尋ねた途端、元暁は複雑な表情を浮かべた。
ちらりと横を見上げれば文秀はのんきに欠伸をして鼻の頭を掻いている。人間ではない元暁に特別な答えを求めているというより本当にたんなる疑問を口に出しているようで、少しも気負ったところはない。元暁は口元に笑みを繕ってさあどうしてでしょうと首を傾げた。
悪獣だから。そのひとことで済めば自分にとっても楽なのだが、如何せん、自分は悪獣である自分を呪って聚慎へやってきた。それなのに「自分も悪獣だから分からない」と答えるのは躊躇われた。少しでも人間らしい答えを出そうと模索して、元暁はふと途方に暮れた。
人間らしいとは、いったいどういうことなのだろう。
悪獣として生まれてきた自分の身を呪った。醜い姿も心も、何もかも。
人間として生まれていればこんな苦しみを知らずにすんだのにと、どれほどの思いでこの姿を求めたことだろう。
でも、ヒトの姿を得てからというもの哀しみは増すばかりだった。
人間にはなれないのだと。ヒトの姿をしているからこそ知った、その事実を突きつけられて。元暁は目を伏せた。
認めたくはないけれど
感じているそれは、確かに“淋しさ”だ。
馴れてしまっていた、筈なのに。
諦めも
独りで居ることも。
「辛いか」
唐突に聞かれ、元暁は驚いて文秀を見上げた。
「お前は悪獣だ。どんなに美しい人間の姿を手に入れようと、生まれながらの人間にしてみれば、お前はヒトの皮をかぶった獣に過ぎない」
言い放たれて、元暁の顔から血の気が引いた。
そんなこと、言われずとも知っている。だからこそ元暁という存在にこうして苦しんだいるのだ。聚慎に必要なのは魔法使いである元暁であって、悪獣の元暁ではない。元暁はそれを思って、自嘲の笑みを漏らす。
「憎いか、人間が。焦がれた存在を、醜いと思うか」
元暁が見据える視線に、文秀は静かに言葉を続けた。
+ + + + + +
月の魔力は魔法使いの、悪獣の力を強める働きがあるのだと、本能的な部分でそれを知っていた。
だから元暁は月について何も語らない。ただ美しいものだとしか囁かない。己の悪獣である部分を自ら曝け出すのは嫌だった。
「憎くない、と言えば、それは偽りの言葉になるでしょう」
文秀は、そうか、と頷く。元暁は目を細めた。
「でも、それは私の種族に対しても、同じことなのです……この身を呪い、醜い同族を嫌悪しました。しかし私自身が人間ではない以上、私は彼らを根本から否定することはできない」
彼らを否定することは即ち、己自身の存在を拒むことのような気がしてならない。元暁という人間の存在を信じることも確立することもできないこの状況で、元暁は自分を何と呼べばいいのか分からず、ただそこに
在るだけになっていた。
悪獣と呼ばれるには自分はヒトの心を求めすぎてしまったし、人とされるには周囲がそうしてくれない。
しかしまた、この寂しさを無視できるほど、自分は獣でもなかったのだ。
胸の深いところで、さらに小さな声が聞こえた。
辛いのかも、しれない。
目を伏せた元暁の頭に、ぽんと掌が置かれた。
「俺はお前を見習った方がいいのかもしれん」
文秀は溜息交じりに言う。元暁はきょとんとして彼を見上げた。
「俺は単純だからな。同じ釜の飯を食った仲間を殺した悪獣どもが憎い。そして俺の国を脅かす他所の人間を許せない……お前のように考えることができれば、俺も少しはマシな人間になるのだろうか」
その言葉に、元暁は目を見張った。文秀の静かなばかりの顔を食い入るように見つめる。
「将軍はすでに、人間ではありませんか」
「見た目はな。おまえと違い、俺は人間の女の腹から生まれてきたのだから」
「では、」
「だが俺は、自分がまともな人間とは、とても思えん」
言葉を続けようとした元暁を遮り、文秀は月を見上げて呟いた。彼の顔からはすでに酔いの気配は消えている。しかしその横顔から昼間の将軍の姿を思い出すことはできなかった。
「俺の部下は俺を鬼だと言う。だが俺は将軍ではあっても鬼にはなれん。鬼であるならなぜ悪獣を憎む。なぜ愛しい者を守ろうとする……姿は人間でも他者には鬼に見られ、だが俺は鬼になったつもりなどない。むしろ人間であるからこそ俺は鬼と呼ばれる」
くすりと文秀は笑う。
「俺もお前と同じということだろうか
ヒトにもなりきれず、獣にもなれん。中途半端な存在だな。俺も、お前も」