“お帰り、元述”


耳について離れない、あの声。悪夢のようだと思った。自分は確かに死んでいたのに。二度と目覚めなくても良かったのに。
血に濡れて立ち上がったときに抱いた想いは決して消え去ることはなく、今だ元述を苦しめる。死んだはずなのに蘇らされたというそれは、和らぐことのない苦痛だけを元述に与え続けた。
なぜ彼は自分を逝かせてくれなかったのだろうか。彼は自分に何をさせようとしているのだろう――考えたところで答えが得られるはずもない。阿志泰の考えが元述に予想できるようなら、文秀だって彼に騙されることなんてなかったはずなのだから。
彼は腐敗を始め変色した掌を強く握る。生きているのなら、痛みが走るほどの強さであるはずなのに、今では何も感じない。
眠ることのできない夜は、元述に悪夢を見せる。眠りを必要としない体は歩き続けても疲れを感じず、風が吹き付けてもそれに寒さを感じることはない。身体に巻いた包帯が取れてもそれに気付くことも難しく、用心のため元述は人のいない山道を歩いていた。
寂しさなど感じるはずがない。そんな感情は国が滅んだときに捨ててしまった。
しかし、文秀と再会を果たしたあのとき――元述が抱いた感情は、喜びなどではなかった。



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「お前は眠らないのか」
火の番は私がやるからあなたは眠れと、聚慎にいた頃では有り得なかった厳しい口調で指図する元述に、文秀はさして気にしたふうでもなく尋ねる。
房子はすでに眠っている。暗行御史の世話をするのは自分だといつも言っていたくせに、元述が旅に同行するようになってからは二人の間に流れる雰囲気を嫌がって夜はさっさと眠ってしまう。朝は朝食のこともあって文秀より先に目を覚ますが、文秀と房子の間にある距離は、以前に比べればずっと離れてしまっている。しかし文秀はそれを気にしないようにしていたし、文秀を無事に阿志泰のもとへ連れて行くことだけを念頭に置いている元述もまた何も思わずにいた。
「一度は死んだ身ですから」
「けど生き返ったんだから睡眠は必要じゃねえか」
さも当たり前のことのように文秀は言う。元述はぎりりと奥歯を噛みしめた。
生きている彼には――死んだことのない文秀には、理解できるはずがない。生きているはずなのに死んでいるこの肉体。その苦痛がどのようなものなのか、文秀には想像することすらできないだろう。かつて、自分がそうであったように。
「火の番、やってくれるってのはありがてえけどよ。それで後で倒れたらそっちの方がめんどうだからな。明け方前にはお前も寝ろよ」
まただ――元述は思う。分かっているはずなのに。彼は自分を理解できない。彼に限ったことではない……なのになぜ、こんなにも苛立つのか。
「必要ありませんから」
「要らなくても寝ろ」
急に峻厳な態度で元述に文秀は言う。もともと高圧的な物言いをする男だったがいつもと違うそれに、元述は背を預けていた木から離れて文秀の前に近寄った。
文秀の瞳と目が合う。彼の視線はいつだって獣のような光がその奥底にはあった。聚慎で将軍として君臨していた頃とそれは違わず、安堵する反面、その視線から逃げようとする自分を元述は実感していた。
「私の心配をしている場合ですか?ご安心を。死体は眠らなかったからといって倒れたりしませんから。私が倒れるとすれば、それは貴女が阿志泰を――」
「それをやめろって言ってんだ」
元述の声を遮って文秀は言った。
「自分が死体だなんて、軽軽しく言うんじゃねえ」



気が付いたとき、元述の下には文秀の顔があった。元述の奮える手は彼の首にかかっている。
「――あなたに、理解してもらおうとは思っていない」
一人で迎える朝日を見るたびに何を思ったか。血の流れない身体を見るたび、日がたつにつれて五感を忘れている己に、どれほどの艱苦に絶えてきたことか。
憎んでも憎んでもそれが消えることはない。むしろ、文秀がこうして自分の前にいることが、元述に阿志泰の姿を思い出させる。
首に触れた指先に力がこもる。文秀は退けようとはしなかった。
「あのとき、本当にあなたを殺していれば良かった――!!」
そうすれば自分は、この人を憎まずにすんだのに。
この人を想って死ねたのに。



震える手に触れるものがあった。
それは温かさも冷たさも元述には伝わらなかったけれど、その触れた掌の大きさも温もりも、元述はよく知っていた。
「俺はおまえが蘇ってくれて、もう一度会えて、嬉しかったよ」
思いも寄らない言葉に元述は目を見開く。びくりと震えた元述の手をやんわりと握り、文秀は微笑んだ。
「今のおまえは確かに死人だ。こうして俺が触れてもおまえには俺の熱がわからんだろう――だが、俺はおまえに触れるし、こうして話すこともできる……俺にはそれで十分なんだがな」
部下に先に死なれるってのは、嫌なもんなんだぜ。文秀は溜息交じりに呟いた。
だけど、と文秀は言葉を続ける。手に触れていた指先が元述の頬を撫でた。
「おまえが次に死ぬときはきっと、俺もくたばるときだろうよ」
あいつと戦って、無事でいられるとはとても思えん。あいつより先に死ぬ気はないが、生きていられる自信もなくてな。



死んでも良かったのだ。最強の剣士として生きたのは、他ならぬ彼がそれを望んだからだ。
おまえは俺の一番の駒だと言って笑う彼の言葉の裏に、大切だから死なせたくないのだという真意があることを感じていた。駒だと言いながら人として想ってくれる人の為に剣を取ることは苦ではなかった。
彼はいつだって自分たちを導く存在だった。ついてこいと言った彼の背中をつかみたかった。




「最後は一緒に逝けるんだ。一度や二度死んでたって、別に構いやしねえだろ」





 微笑んだ文秀の頬に、一粒の雫がつたった。