彼は強かった。その剣が。そのココロが。
全てにおいて、彼に勝る者はいないと思っていた。
強いと、思っていた。
目を背け続けたナイトメア
鮮血が飛び散る。身に纏った甲冑が立てる音を聞いた。
彼の体躯が崩れ落ちる。まるでスローモーションのように、それは元述の目に焼きついた。
悪獣の牙から血が滴る。それは地に赤黒い染みをつくった。
「――文秀将軍!!」
元述の後ろから英實が声を上げた。
再び鎌首を振り下ろそうとする悪獣に駆け寄り、その頭を一気に砕く。英實が将軍のもとへ駆け寄るのを、元述はどこか虚ろに眺めていた。
「元述!! 何をしてやがる!」
灘隊長を呼んで来いと、英實が声を荒げて元述を呼んだ。しかし元述は動こうとしない。剣を持った腕をだらりと下げたまま、彼は地面に横たわった将軍を見つめていた。
英實は舌打ちをした。元述の様子がおかしいのはどう見たって明らかだが、その原因である将軍の容態は一刻を争う。大蛇に似た悪獣の牙には毒があり、それは将軍の首の付け根辺りに深く食い込んでいた。手当てを急がなければ将軍の命が危い。
とりあえず幽霊部隊の隊長――灘隊長でなくても構わない。特殊部隊の人間であれば一介の兵士である英實よりずっと毒の対処法にも詳しいはずだ。医師がここにいない以上、少しでも知識のある人間に将軍を任せ、病院へ運ばなければならない。
文秀の傷を押さえて止血をする英實の耳に、醜い奇声が届く。そうだ、悪獣は何も一匹ではない。同属の血の臭いを嗅いで、いたるところから集まってくる。そしてそれは英實一人ではとても対処できない。
「元述!!」
未だに佇んだままの元述の名を呼ぶ。何度目かでようやく、元述の顔に表情が戻る――怯えた子供のような、そんな表情だ。
隊長を呼んでくるか将軍の傍にいるか、どちらかを任せようと英實が再び元述を呼ぼうとするより先に、悪獣が英實を目掛けて走りよって来ていた。
英實は文秀の傷から手を放して悪獣に迎え討とうと身構えた。
視界を過ぎったのは、見知った友人の姿。振り下ろされる白刃。
どうと地に倒れた悪獣には見向きもせず、元述は英實を振り返る。英實というより、将軍を。
ふらふらと、危なっかしい足取りで文秀のもとへ近寄り、その傍らに膝をついた。
頼りなげではあるが、とりあえず自我は戻っている。この場は任せても大丈夫だろうと英實は無理やり自分を納得させ、「隊長を探してくる」と元述に声をかけた。元述は英實を見なかったが、小さくうなずいたようだった。
急がなければ。英實が駆け出そうと立ち上がるとき、元述がそっと将軍の頬に手を寄せた。その手はぎょっとするほど震えている。元述の顔は、文秀よりずっと蒼かった。
「――将、軍」
その元述の、かつてないほど怯えの色を滲ませたその声を聞き、英實は自分の血の気が引くのを感じた。
あいつはもう、将軍がいなければ駄目なのだと。
駆ける足を必死に動かしながら、英實は文秀の無事を願い続けた。
――――――――――――――――――
寝台に横たわった文秀の顔色は蒼いが、文秀の心臓は確かに動いていた。頬に触れれば確かに熱を持っていて、英實はほっと胸を撫で下ろした。
隊長は文秀の倒れた位置からそう離れていない場所にいた。将軍が傷を負ったのだと伝えれば隊を他の者に任せて文秀のもとへ駆けつけ、慣れた手つきで処置を施し、馬を駆って都へ戻った。
その間、英實はずっと元述の近くにいた。隊長と文秀のもとへ戻った頃には元述も平常心を取り戻していたが、その顔色はやはり良くなかった。
今も寝台の傍から離れようとせず、文秀の顔をひたすらに見つめていた。まるで目を離せば将軍が息を止めてしまうのではないのかと、そんなことを疑っているような真剣な眼差しで。
「元述」
ぴくりと、元述の肩が震える。英實は内心でため息をついた。
「将軍は死んじゃいねえよ。毒も後には残らねえって言ってたし、もう大丈夫だ……お前も休め。帰ってきてから一睡もしてねえだろ」
そう言う英實こそ友人である元述のただならぬ様子が心配で眠っていないのだが、そんなことは棚に上げて英實は言う。
しかし、元述はふるふると弱く首を振った。
その唇が、何かを伝えようとして薄く開かれ、もどかしげに閉ざされる。英實は彼が言葉を発するのを辛抱強く待った。
「……文秀、将軍が」
「………うん?」
「将軍は、死なないのだと……なぜか、そんな風に、俺は考えていたようだ……」
元述は弱弱しい笑みを浮かべた。
その笑みを見て、英實は、元述の不安の意味を悟る。
確かに文秀は強い。剣の腕を言うなら元述の方が上回るだろうが、将軍の強さはなにもその剣の烈しさだけではない。
見る者を震え上がらせる何か。それは気迫とかカリスマとか、そんなものでは表しきれないものだ。
将軍の芯の強さがそれを見せるのか、はたまたもっと別のものがあるのか、それは英實にも分からない。分かるようなものではない。
けれど、その何かを恐れるのと同時に、惹きつけられるのも確かだ。
この人に付いて行けばいいのだと。無条件にそう思わせる強さ。それは神を崇める気持ちにも酷似している
だから。
そんな将軍だから、彼は決して死ぬことがないのだと、そう錯覚させられるときがある。
軍人にとって、死とはいつでも隣り合わせに存在しているものだ。訓練の時間だって一歩間違えれば命を落としかねない。戦になれば無事に帰ってこられるだけで家族は涙するし、悪獣の退治ともなれば生きている方が不思議に思えるほどだ。それほど軍人にとって死の存在は近く、また遠くもある。
そんな中にあって死を匂わせない存在が、文秀将軍だった。彼は死なない。いつだって勝利を携えてくる。彼が共にあれば国は守られる。――そんな崇拝まがいの言葉が囁かれて、人々は彼の力を信じる。
でも、将軍は。文秀は人間だ。英實たちと同じように怪我をするときもある。そしていずれは命を落とすだろう。
それを見ようとしないのは、軍人の驕りだ。死を間近に見ているからこそ死とはかけ離れた存在を求め、それがさも当然のことのように信じる。崇める対象が人によっては神だったり国王だったりと、様々だ。そしてその対象に、文秀もまた数えられているだけのこと。
だけど、元述は違う。彼は神を信じてはいない。軍に命を掲げても、国王には命を捧げていない。
彼が血塗れた道の前を自ら進むのは、文秀将軍という、彼にとって絶対の存在があるからだ。
彼は死なない。神ではないが、ただの人間だが、死なない。
無意識のうちに抱いていたそれを、元述は今、文秀が倒れたことで覆されてしまった。文秀の傍にもまた死の誘いはあるのだと、彼は気付かされてしまった。
――でもそれは、元述だけではない……英實はそっと目を伏せた。
あの場にいたのはごく少数の者だ。殆どの者は将軍が倒れたことを知らないだろう。医者の話によれば目覚めるのもそう遠くはないというから、この将軍のこと、明日になればいつものように軍務についていることだろう。彼が倒れたことを知らずに彼を崇める者は彼の姿を見るだろう。
だけど英實はその
知っている者に入っている。
彼もまた、将軍が地に伏すところを見てしまった。
平常心でいられたのは、あの場で元述の気配が変わったおかげだと、英實は知っている。
もし、あそこに誰もいなかったら。元述がいつもと同じ冷静な態度でいたなら。
今この場で文秀の傍らに寄り添う者を見つめるのは自分ではなかったのだろうと、英實はゆっくり目を閉じた。