彼が与えてくれると言ったから、だから自分はそれを欲するのだ。
求めたものには まだ 届かない。
コンコン、と扉をノックすれば、やや間が空いてから「入れ」と部屋の中から声が返ってきた。
開けたドアから室内に踏み入った元暁は、卓の前にうんざりした顔で座る文秀に笑いかけた。
「少し、構いませんか?」
「少しと言わず大いに構うんだが、おまえなら歓迎するよ」
咥えた煙草の先からぽろりと膝上に灰が落ち、慌ててそれを払う。
そんな様子に、元暁は笑みを深めた。
「そろそろ辛くなる頃かと思いまして、珍しい菓子を持ってきました」
「……気が利くなあ、おまえ」
感極まったかのようにうっとり呟かれて、胸の内が少しだけ暖かくなったような気がした。誰かに必要とされ、そして喜ばれるのは嬉しいと素直に思う。
卓上に積み重なる書物の量から多忙さは一目瞭然だが、ここ数日、それこそ寝る間も惜しんで文秀は仕事をしているのだろう。まともな睡眠をとることさえままならないようで、目の下には濃い隈ができていた。なんといっても覇気に欠けている。もともとデスクワーク派の人間ではないのだし、いくら仕事ができる男とはいえ、座りきりはかなりの苦痛なはずで、元暁は心中で少しばかりの同情を寄せた。
書簡の束を脇によけて菓子を置いた。西洋に興味を持つ文秀のために高値で買ってきたものだ。まだ東と西の交易は盛んではないから、手に入れるのは楽ではない。
甘いものをさして好まない文秀も西洋のものであればやはり興味を持つのか、不思議な形をしたそれを指でつまんでまじまじと見つめ、口に放り込んだ。
「どうです、なかなか美味でしょう?」
「悪くない……が、やはり、甘いな」
「疲れたときには甘いものが良いと、どなたかが言っていたではありませんか」
「灘か?」
「おや、私は将軍からお聞きしたような覚えがあるのですが」
そうだったか?と首をかたむける文秀に笑みを零しつつ、元暁は窓に近づいた。窓を開けに行く労力さえ惜しんだのか、密室状態の室内には煙草の煙が白くこもっている。
開け放った窓の向こうには軍の訓練所が見えた。さすがに一人ひとりの顔を判別できるほどではないが、全体の様子を掴むには十分な距離だ。
実際に訓練している兵士たちのどれほどが気付き、そしてどう感じているのだろうか。軍内に再び漂ってきた緊張感。より厳しくなった上官らの視線。
また、戦が始まる。
前の戦はついこの間終わったばかりだというのに。聚慎は再び自らの血にまみれようとしていた。
「……元述殿に、お会いしましたよ」
文秀は目を落としていた書簡から視線を外して元暁を振り返った。その瞳は悪戯心を宿して輝いている。
「感想は?」
「将軍が言っていた通り、馬鹿正直な方でしたよ。悲劇に見舞われた家の名を持つとは思えない。しかしそれだけに、今後の彼に期待してあげたい気もしますね」
「そうだろう。あの馬鹿正直さが吉と出るか凶と出るか。お楽しみってね」
視線を逸らしているのにも関わらず、その人を食った笑みが目に浮かぶような明るい声。
「彼のあれは、獣の目ではありませんね」
「そうだ。
あれは、鳥肌が立ったな」
その時を思い出してでもいるのか、口調は笑っていてもその瞳は重く真剣だった。
「彼を飼い馴らすおつもりですか?」
「穏やかな言い方じゃないな」
「間違っているとは思いませんが。かくゆう私も、今では将軍の飼い犬ですから」
「
元暁」
何かを言いかける文秀を視線でやんわりと制して、元暁は微笑う。
「忘れないでくださいね、文秀将軍」
醜い心を持ってしまった。
「私はあなたに命を授けます。どんな命令にも従いましょう。私は人間のために聚慎に仕えますが、『元暁』が命を捧げるのはあなただけです。しかしそれは、あなたを敬っているからでも、畏れているからでもない」
自分を見つめる文秀の視線が突き刺さる。醜いことをしている自覚があった。聚慎の抱える重荷を減らそうと奮闘している彼を労わるそぶりを見せながら、彼に更なる重圧をかけている。感情を御しきれない己に嫌気がさした。
「……あなたが私の名を呼んだ日、私におっしゃられたことを、どうかお忘れなく」
彼は優しい。鬼と呼ばれ、将軍と称えられ。それに似合わぬ優しい心の持ち主だ。
そんな彼に甘えている。彼に傷を負わせて、自分を忘れられないようにしている自分が、滑稽だった。
+ + + + + +
元暁の去った部屋の中で、文秀はしばらく物思いに耽っていた。
彼と約束したことがある。元暁が求めていたのは、文秀にとっても良しとすることだったのだ。それを敢えて賛同せずに、彼の弱みにつけこんで、彼の力を利用するために、自分は彼と契約した。
いつになったらその“約束”を果たせるのか。それは文秀にも分からない。やり遂げる覚悟も度胸もあるが、正直、自信はない。結果として彼をひどく傷つけてしまいそうで、どうしても一歩を踏みとどまってしまう。
「俺だって、早く見たいさ………」
一日も早く、“約束”を果たしたいと思う。元暁のためだけではない。聚慎のために。
そして、愛しい人と共に己を救ってくれた、親友のために。
風が吹いた。開け放たれたままの窓が揺れ、重石をしていなかった紙がひらりと舞う。それを追って立ち上がり、開けた窓を狭めるために窓辺に近寄る。
空は晴天に輝いていた。
何百、何千といる兵士の中に、ただ一人、どこにいても目につく者がいる。
(お前は、どうなるだろうな……)
ここにはいないその青年に、届かない声で呼びかける。
(俺みたいには、なってくれるなよ………)
意味を成さない、願いと共に。