あの方が私そう言うなら、私は命を捨てましょう。
そう言って微笑むその人を、羨ましいと思った。
「…述、元述」
目の前にひらひらと手を翳されて、元述はびっくりして持っていた箸を落としてしまった。卓上をコロコロ転がる箸を慌てて押さえて、きょろきょろとあたりを見渡す。ガヤガヤとした喧騒が耳に戻ってくる。
そういえば、自分は食事をしている途中なのだ。元述は呆けていた頭を軽く左右に振って、それから盛大なため息をついた。横で元述を心配そうに覗き込んでいる友人に生きてるか、と問われて、元述は弱弱しい笑みを浮かべる。
元述がこんなふうにぼけっとしてしまうのは、今に始まったことではない。おかげで最近、剣術の成績が思わしくなく、上官たちにも心配或いは失望されている。どうやら自分は多少なりとも上官たちに将来有望と見られていたようで、その態度は顕著に現われていた。
出世欲とかそんな欲望とは縁遠い元述は、上官たちに見放されかけたって悲しいとは思わない。が、当然、嬉しくもない。
それもこれも、あの人のせいだ。
元述はこっそり、件の将軍の顔を思い浮かべて悪態をついた。
不遜な態度を取ったとして叱責が飛ぶかと思いきや、文秀はただ草原の向こうを見つめるだけで、元述には何も言おうとしなかった。
居心地の悪さにさっさとその場を逃げ出したかったが、自分より上位の者が先に退席するか退出するのを命ぜられるのを待つのが、軍での礼儀。ここでもそれは有効なのか当然そうだろうなと元述が思い悩んでいると、文秀の側近が慌しく文秀を呼びにきて、彼は元述に声をかけずに宮の方へ戻っていった。側近の態度が、どことなく忙しない様子だったのは見間違いではないだろう。
それから数日。文秀に話を聞いた上官らからお咎めのひとつでも貰うはめになるのではとびくびくしていたが、結局一週間以上経っても元述のところには誰も訪れなかった。もしかするとあの時文秀が呼び戻された理由が国に関わる重要なことで、元述のことなどすっかり忘れているのかもしれない。或いは、元述が勝手に非礼を働いたと思っていただけで、文秀にとったらさしたる問題ではなかったのかもしれない。
どちらにしろ、ありがたいことだ。
+ + + + + +
月の明るい夜。下士官用の宿舎の庭にある訓練所で、元述は剣を振った。生真面目な元述は己に厳しく、軍に入隊してからも夜の自主練習を欠いたことがなかった。
しかし、その時の剣は練習のために振るっているというよりは、我武者羅にただ振り回しているだけのように見える。
藁でできた人型を切り落としながら、元述は思うように動いてくれない体に舌打ちする。斬り込む瞬間に生じる僅かな躊躇い。それが戦場では最も危険なものだと承知しているのに、元述はそれを捨て去ることができない――あの同僚と話してからだ。
どうして、こんなことに。問われた言葉が頭から離れない。
国を守る。その為に剣を取り、人を殺す。それだけのこと。そこにあるのが正義である必要はない。人であっても敵は敵。殺さなければ斬られるのが自分という戦場で、何を躊躇う必要があるのか。それに踏ん切りをつけることができないから同僚は腕を失った。答えは簡単ではないか。
それでいいのだ、という声があり、本当にそれでいいのか、と問う声がある。
感情と理論は別物。理解したって納得することはできないのもまた当然のこと。それだけのことだと、割り切ることは難しい。もとより優しい気性をしている元述にとっては余計に。
「くそっ………っ!」
元述は苛々と藁に剣を突き刺した。
答えが欲しい。これでいいと。自分の道を指し示してくれるもの。
揺ぎ無い何かが、欲しくてたまらなかった。
「ずいぶんと荒れていらっしゃいますね」
乱雑に剣を振るう元述に後ろから声がかかった。藁に剣を突き刺したまま驚いて振り返ると、練習所の隅にある腰掛けに座り、こちらを眺めている人影がある。
「
元暁隊長………?」
まったく気配が分からなかった。いつからそこにいたのか、驚く元述ににこりと微笑み、元暁は立ち上がって元述の近くにまで歩いてくる。
「今宵は良い月ですね」
元暁は戸惑う元述にただ微笑む。その笑みに人ならざる妖艶なものを感じ取って、元述はさらに狼狽した。
魔法部隊隊長。元述が元暁に個人的に接したことなどもちろん皆無で、元述は元暁の登場にただ驚くばかりだ。彼が自分に話しかける理由などあるはずがない。おまけに元述は、元暁について良い話を聞かなかった。それは元暁の人柄を言うものではなく明らかな中傷が大半だったが、元暁がどのような人であるかを知らない元述はそういった情報しか持っていない。警戒するのは仕方がないことだ。
もともと魔法部隊というのは軍内でも敬遠されている部隊といえる。噂ではこの目の前にいる元暁が軍に入ってから設立されたという話もあったが、さすがにそれは有り得ないだろう。軍の歴史を考えれば目の前の人物はかなりの老齢ということになるが、見た目はどうしたって元述と同じか少し上なくらいだ。
けれど、彼が国に仕えることを許されるにあたって、軍と城内の上層部で何かしら騒動があったらしいという話は、事実に近いらしく、それと思わしき言葉を上官らが口にしたことを元述はちょうど聞いたことがある。どちらにしろ事が起きたのは元述たちが入隊するよりずっと前の話だから、今そのことを深く気にするような者は元述の周りにはいないようだが。
「毎夜こうして鍛錬を?」
「は、はい……少しでも腕を上げようと……」
そうですか、と夜空を見上げて微笑んでいる元暁に、元暁は不意に合点した。元暁がこのような場所に現われ元述に声をかけた、その理由だ。
文秀将軍の飼い犬、と。
噂を耳にしたとき、囁かれた言葉。
それを思えば元暁がこの場に現われた理由も納得できる。自嘲ともとれる苦笑を浮かべた。
「文秀将軍から言われたのですか」
その声が思いのほか沈んでいて、元述はさらに失笑した。
(
落胆しているのか、俺は)
彼が自分の失礼を忘れているという安堵感と。懐の広い人だという感動が、崩されたようで。
元暁は「どういうことです?」首を傾げた。
「何日か前、私が将軍に無礼を働いたことはご存知でしょう。それでここに?」
傾げた首をまっすぐに戻して、あぁ、と彼は頷いた。
「なるほど、あなたが元述殿でしたか!」
両手をぱちんと合わせて、嬉しそうに声を上げる。
「なるほど、なるほど。ええ、確かに将軍からお名前をお聞きしておりますよ。面白いやつを見つけたと、喜色満面に話してくださいました」
え、と目を見張った元述を無視して、元暁は一層笑みを深めてにこにこと元述を見上げた。
「報告することがありまして部屋を訪れた時にですね、やたらと嬉しそうに窓枠に座っていらして。最近特に忙しかったようですから疲れてついに気が変になったのかと、一瞬心配してしまいましたが」
袖を口元に寄せて、ふふ、と元暁は笑う。
「久々に大物に会えたと、笑われて。何があったのか詳しくは教えてくださいませんでしたが、御名前だけはお聞きすることができました」
そうですかあなたが元述殿ですか。お会いできて嬉しいですと握手まで求めてくる元暁からは、噂される凶悪さなど欠片もない。おまけに隊長各の人物に「会えて嬉しい」なんて言われるなんてこっちこそ驚きだと内心で呟きながらも、元述は無視できない言葉を聞き返した。
「
私が、面白い?」
「ええ。最近はあなたのような若者が減って聚慎軍の将来を心配していたとか。だから元述殿のような方がいると知って安心したと、そうおっしゃっていましたよ」
嬉々として語る元暁に、元述はぽかんと口を開けた。
「将軍が誰かを個人的に気に入られるなど珍しいことです。いったい何をなさったのです?」
興味津々というように元暁が見上げてくる。元述はようやく理解したというように彼を見返した。
どうやら自分が非礼と思っていたことは、将軍にとってはむしろ良い収穫となったようで。
ここは、喜ぶべきなのだろうか。
国王と親しく軍の最高権力者である文秀将軍に、気に入られた、など。同僚たちなら口を揃えて羨ましいと言うだろう。中には、哀れみと共に同情してくる者もいるかもしれないが。
しかし、ふと元述は考える。あの丘で自分は、将軍に何を話しただろう?彼を睨みつけて、友人が剣を握れない、と。そう告げただけだ。それだけで文秀が自分を大物と誉める理由が分からない。
口を噤んで考え込んでしまった元述に聞き出すことは不可能と判断したのか、元暁は残念そうに肩を竦めた。それからついと月を見上げて、再び元述に視線を戻す。
「元述殿は、文秀将軍がお嫌いですか?」
「え?」
「将軍のことで、何か悩んでいらっしゃるのでしょう?あの人の名に、どことなく剣呑な雰囲気を感じられたので」
どうです?と目で問いてくる元暁に、元述は答えに窮し、当惑の表情を浮かべた。
「嫌いではないと思います」
「では苦手だと?」
「……そうですね。あまり関わりたくないというのが本音かもしれません」
隊長ともあろう人物に話すのはどうかと思われたが、馬鹿がつくほど正直な元述は、適当に受け流すことはできない。どう見たって文秀を好いている元暁の前で告げるのになんとない居心地の悪さを感じながら、それでもありのまま本心を述べた。
元暁はそうですか、と目を伏せる。
「人間の対人好悪については、他人がどうこう言えることではありませんが……けれど私は、元述殿も文秀将軍と話せば、きっとそうも言っていられなくなると思いますよ」
「そうでしょうか」
「ええ。絶対に」
元暁の中では確定しているらしい未来に、元述は苦笑した。
元暁が手を翳せば藁に突き刺さった剣がするりと抜け、元述の手元に戻ってきた。
「迷いのある力は何にもなりません。そろそろ休まれてはよろしいかと」
「はい。そうします」
「では機会があれば、また」
元暁は一礼して踵を返す。「あの!」元述はその背を呼び止めた。
呼び止められた元暁はそれを予期していたように立ち止まって振り返る。どうかしましたか?と微笑んで首を傾げた。
「……元暁隊長は、なぜ文秀将軍を好いているのです?彼を尊敬できる理由は何ですか?」
元暁はぴたりと元述を見つめた。
彼はちらりと口元を歪め、揶揄に似た色の笑みを浮かべた。
「私は確かに将軍の人柄を好いています。しかしそれは、彼に心酔するほどのものではありません。そして尊敬できる人物だと思って彼に惹かれたわけでもありません」
驚愕して目を見開く元述が口を開くより先に、けれど、と元暁は言葉を続ける。
「あの方が私に命を捨てろ、と言うのなら、私はそうするでしょう」
他の人では有り得なかった。国王でも、他の将軍でも。
他でもない文秀将軍が。あの方があるから、今の私があるのです、と。
そう言う元暁の声は、どこか泣きそうだった。