どうして、と。
白いシーツを握り締めて、かつて同僚であった男は言った。
忘れられないんだ。彼は言った。
俺は殺した。たくさん斬った。
ああ、どうして殺してしまったんだろう。
国を守るためだって分かってるのに。でも。どうして、どうしてもあの時の、あの顔が忘れられないんだ。
お母さんって、そいつは言ったんだ。
まだ、死にたくないって。
だから殺した。泣いてるそいつに、剣を立てて、殺したんだ。
殺したんだ。
その時に彼が心に受けた衝撃は後々まで引きずることになり、彼は先日の戦闘で、左腕を失った。敵に留めを刺すことができずに返り討ちにあったのだ。
彼の顔は、かつては屈強な兵士であったとは信じられないほどにやつれていた。薬湯では抑えきれない痛みに毎夜うなされ、まともに眠ることすらできないという。次第に食も衰え、今では流動食を流し込んでいる状態にまでなっている。
なぜ、こんなことになってしまったんだろう。
静かに涙を流しながら問うた彼に、元述は答えることができなかった。
空き地は西から南にかけ開けていて、緩やかな斜面の向こうには緑に覆われた丘陵が見渡せる。
誰の領地でもなく放っておかれっ放しの荒れ野には、雑草がぼうぼうと生い茂っていた。
大地にじかに寝転がると視界一杯に空が飛び込んでくる。
――腕を失くした彼は、元述と入隊が同期だった。同じ部隊に配された同じ新参者として、それなりに親しくしていた仲間だったのだ。
どちらかといえば細身な元述は、彼の頑強な体躯と力強い太刀を羨んでいた。きっと彼は強い戦士となるのだろうなどと、己が精神的に弱者であることを知っていた元述は思っていたのだ。彼の腕が失われる、その時まで。
軍とはそういうものだ。国を守るために人を殺し、悪獣を斬る。そこに道徳なんてものはない。戦い血に塗れることが正義であり道義だ。そして得た“勝利”の代償に、国のどこかでは国を守るために戦い、四肢を、そして命を失った兵士がいて。その背後には、大切な人を喪った者がいる。
そんな人々を見てきていた元述もまた、多くの兵士たちのように国と人々の平和を守るためにと願い、軍に入隊した。家の名のためと言われればそれまでしかないが、それ以上に、誰かが涙を流す姿を見たくなかった。彼等の涙を見るのは辛く、苦しかったから。
しかし、元述が軍に入ったからといって、人々の顔から哀しみが消えるわけではない。悪獣に殺された父が浮かばれるわけでもない。そんなことは百も承知だ。
誰かが死ぬたび、その誰かのために涙を流す人は必ず何処かにいて。
自分が「敵」を殺せば、死んだ其の人を悲しむ人間は、この国ではないどこかの国に、確かにいるのだ。
そしてまた自分のように、国のためにと戦いに赴く人がいて……
どうすればいいんだろう。もう、見たくないのに
解決策なんか何処にもないことをしっていながら、それでも答えを探そうとしてしまう。
悪獣を相手にするのなら、まだいい。でも、人を斬るのは、あまりに辛すぎる。
今になって、軍に入隊したことに後悔を抱き始めている自分がいることを、元述はもどかしく感じていた。
「こんなところで、昼寝か?」
突然かかった声は背後から聞こえた。元述は驚き、慌てて身を起こす。
今は訓練中でもないから自由にしていても許されるはずなのだが、その声の主を元述は知ってしまっているから、落ち込んだ内面は別として気の抜けた姿を見せるわけにいかなかった。
「文秀将軍!」
「ま、こんな天気なら昼寝のひとつもしたくなるがな」
反射的に礼をとる元述なぞ視野の外とでもいうように将軍は空を見上げ、けれどその羨ましげな口調の言葉は元述に向けられていた。
将軍は軍服を肩に引っかけるようにして着ていた。布は上等なものだがどこかくたびれていて、彼が執務の休憩がてらこの丘に足を運んだのだろうと推測できた。出兵から戻ればあとはひたすら訓練と悪獣の退治に追われる日々を送るただの軍人である元述たちとは違い、軍総括の将軍である文秀には、国営に関わる仕事も山積みだ。戦が終わったからといって休息があるはずもない。
煙草をくわえたままの文秀が元述を振り返る。
その紫煙の瞳。元述の視線が合った。
その途端に鮮やかに蘇る記憶。無惨に切断された骸。噴出した鮮血。血塗れた将軍の刀とその貌。
思わず元述は自分の右腕に左手で触れていた。元述は彼が恐ろしかったのだ。
「……ずいぶん、お疲れのようですね」
将軍と元述とではあまりに身分が違う。容易く声をかけることは躊躇われた。しかし、なにかを言わなければならないと、奇妙な強迫観念に捕らわれて、元述は震える手を握り締めなんとかその言葉を紡いだ。
文秀は苦笑した。
「戦から帰ってきてからほとんど寝とらん。勝手に前線へ出た罰だと、あいつは自分の仕事まで押し付けてきやがる」
あいつ、というのが誰のことを指しているのか、元述にも予想はついた。彼はその実力と、他でもない聚慎の国王と懇意であるということでも有名なのだから。
「国王と、親しいのですね」
言わずもがなのことを口にしてしまい、はっとする。あまりに分不相応なことだ。
牽制の視線のひとつでもよこされるかと思ったが、元述の予想に反して、文秀は快活な笑い声を立てた。
「一応は親友だからな。最近は単に俺を苛める為にこき使われてる気もしないではないが」
目元が和らいで、少しだけ柔和な印象になる。それに助けられて元述は肩の力を抜いた。
「それほど将軍は国王に信頼されているということでしょう?良いではありませんか」
「貴様、他人事だと思って」
短くなった煙草の灰を落として、文秀は苦い表情で言う。
「そんなことはありませんよ」元述は笑った。
傍らで丘の向こうを眺める将軍を見ながら元述は、心の中で密かに胸を撫で下ろしていた。あれほど恐ろしかった男が、今はそれほど恐ろしくはない。瞳を合わせるのはまだ怖いが、話をしている限りでは彼もまた普通の将軍と同じ。むしろ気負った他の将軍よりずっと話し易いような気がして、元術は安心した。
先日の戦とは比べようも無い穏やかなときが過ぎる。照った日差しが快いほどだった。
あの瞬間、悪獣と間違えたのはあまりに失礼が過ぎたかもしれないと、元述が心の中で苦笑を浮かべたとき。文秀が再び口を開いた。
「軍の病棟から出てきたな」
「――は」
「知り合いが怪我でもしたか」
文秀の口調は快活だ。だが、その口から発せられた言葉は、今の元述にとって、決して軽いものではない。
元述は目を伏せた。
「友人が、腕を失いました」
「そうか」
「痛みで眠れぬそうです。食事もとっていない
彼は強い戦士だった。私など及びもせぬほどに逞しく、屈強な男でした。その彼は二度と、剣を握ることはないでしょう」
将軍に対して、愚かなことを言っているという自覚はあった。負傷した兵士の苦しみを彼が知らないとは思えなかったし、先ほどの言葉も傷ついた者を軽んじたわけではないだろう。
風が吹いた。服の裾が翻る。
長い髪が揺れ、文秀の顔を隠した。
「人を殺めて国を守ろうとした我々は、最後、己すら殺すのですね」
それでも言葉を止めなかったのは。もしかすると、軍人となって生まれた自分の中の葛藤が、文秀に何かを求めたのかもしれなかった。