それは純然たる恐怖だった。




   
言い聞かせた言葉は、
今となっては無駄な耳鳴り





背後に殺気があった。振り返りざま斬撃を受けた剣から小さく剣花が飛ぶ。切っ先で弧を描くように持ち上げて敵の剣を跳ね上げ、そのまま振り下ろせば醜い断末魔の叫びが上がった。
完全に息絶えたかどうかを見ている暇も無く、次から次へと敵が殺到してくる。
振るう剣はどれだけの敵を切り倒したのかは分からないほどに脂と血糊にまみれている。酷使し続けた腕は重く、もはや何を斬っているのか、意識さえ定かではない。ただ我武者羅に近寄ってくる敵を切り倒す。それが自分たちと同じ"人”であるという認識は既に無く、あるのは故国を脅かす“敵”であるということ、そしてそれらを排除するのが今の自分の務めであるということだけだった。
――あとどれだけ、殺せばいい。
軍に入隊して、まだ半年ほど。剣の扱いにも慣れ、人を斬ることも覚えたその矢先。隣国の軍が少数ではあるが国境を超えたという情報が偵察からもたらされ、その討伐にと元述たちは駆り出された。
自分の所属する隊に割り当てられた敵地は落とした。あとは残党を捕らえ、反抗する者を一掃すればすむ。自分たちは勝利者として国へ帰れるのだ。
もうこれで終わるのだと解っていても、疲労した肉体は思考までを鈍らせる。元述は自分の足元に横たわる骸を暗い瞳で見下ろした。
柄を握る力がふと弱まったとき、横から声が上がった。
「元述!」
間髪入れずに元述は振り返る。腕を伸ばして剣は敵の喉下を切り裂いたが、同時に飛び掛ってきたもう一人の太刀が、元述の後頭部に振り落とされた。
――斬られる。
しかし、死を予想した元述に、敵の刃が落とされることはなかった。
振り返った元述の視界に映ったのは、崩れ落ちる人だったものの肉塊と、鮮やかな弧を描く白刃の煌き。
戦場の前線には不似合いな、漆黒の黒衣が翻る。辺りの光を遮るかのようなそれに、元述は身を強張らせた。
悪獣が現れたと、思ったのだ。中には人と同じように武器を振るう悪獣もいると聞くが、その刃の烈しさは、自分と同じ人間の扱うものであるとは思えなかった。
敵の血塗れた刃が虚しく宙を斬った。敵が体制を崩したところで背に剣を突き通し、首を跳ね飛ばすように抜くと同時にその横合いから飛び出してきた者の身体を、その切っ先は真っ二つに切り裂いた。
剣を払って血糊を落とし、男は元述を振り返る。
その男の顔を、元述は知っていた。そして、愕然とする。
「――文秀、将軍」
なぜこの人がここにいる。都にいるはずではないのか。聚慎の宮殿に、王と共に。
呆然と目を見開く元述を上から見下ろし、将軍は不敵に微笑んだ。
「いい腕をしているな」
それが自分の剣のことを言っているのだと気づくのに、幾らか時間を要した。本来なら軍の最高位である将軍に対して敬礼の形を取らなければならないのだが、それを反射的に行うほど元述はまだ軍に慣れていなかったし、礼を取ることを忘れるほど一介の兵士である元述にとって、将軍の存在は遠いものだったのだ。
「見ない顔だが、今年の新入りか?」
そして、驚愕はゆるゆるとやってくる。元述の近くにいた同僚も彼と同じ心境だったのか、はっとしたようにして開いていた口を閉じて礼を取った。それにつられて元述も慌てたが、それは将軍の苦笑と「そんなもんはしなくていい」という言葉に黙殺された。
「見ない顔だが、入隊はいつだ」
「は、はい。今年の春です」
思わず上ずった声が自分の口から発せられ、かっと頬が熱くなる。情けない失態に内心ではあたふたしてる元述から視線を逸らし、将軍は懐から煙草を取り出した。
剣は鞘に仕舞われることなく将軍の腕にある。脂と血に汚れたそれからして彼も元述並みに――いやもしかすると、それ以上に人を斬ったのだろうが、将軍には元述のような疲労の色はない。
将軍は悠々と煙草の煙を空に吐き出した。
「筋がいいな。それでまだ半年とは畏れ入る」
将軍は煙草を咥えたまま、にやりと笑った。
他でもない、あの将軍に腕を褒められている……喜びより先に驚愕が襲ってきた。まさか!自分の聞き違いじゃないのか。
元述の動揺を知ってか知らずか、将軍は正面から元述を見据えた。
「あと1年みっちり鍛えれば、軍の中でお前に敵う者もそうはいなくなるだろうな……期待させてらもうか」
通り過ぎさま、肩をぽんと叩かれた。煙草の香りが鼻腔をくすぐる。
そして驚き立ちすくむ元述の背後で、耳に慣れた肉の斬れる音がした。
首を巡らせて振り返る元述は、将軍の足元に崩れ落ちる肉塊を見、そして目を見張った。
それは見事に胴を切り裂かれていたが、その醜い姿を見間違うはずもない。悪獣である。数多の骸を貪るために集ってきたのだ。
「隊を集めて、聚慎に戻れ」
元述たちに見向きすることなく、将軍は空から降りてきた悪獣を切り刻んだ。
露を払って剣を鞘に収める。再び元述と向かい合った将軍の右の顔には一面、悪獣の血が滴っていた。
「こいつらのエサになりたいのなら、強要はしないがな」





期待、という言葉が耳に残る。そして同時に脳裏で繰り返される映像。
宙に舞う血飛沫。飛び出してきた敵に振り下ろされた強靭な切っ先。
骨を砕き身体を断った、その凄惨な太刀。
――悪獣と錯覚したのは、あながち間違いではなかったのだ。
将軍は常に勝利してきた。悪獣にも、人にも。
けれど彼の名が囁かれるとき、まるで代名詞のように付いて廻るその言葉。勝利を運ぶ軍神などと、輝かしいものではなく。
鬼神、と。
あの男がそう呼ばれる理由を、元述は思い知った。



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